今日、叔父の1回忌でした。
1年前のクリスマスイブに旅立ちました。
突然の訃報に驚き、そして後悔しました。
詳細は記せませんが叔父とは、実母の死後、あることがきっかけで、
絶縁関係のような状態でしたので、約6年間音信不通でした。
大好きな叔父でした。
幼いころから、「おじちゃん」ではなく、「お兄ちゃん」であり「父」でした。
おじちゃんとは呼べず、いつも 「○○兄ちゃん」と呼んでいました。
実父が、外国をまわる船でコックをしていたので、1年くらい船上で過ごし
2~3カ月日本へ帰ってくる・・という生活でした。なので、私が生まれた時も、お正月も父は船の上
そんな父に代わって、参観日や幼稚園の運動会etc・・には出席してくれました。
そのお陰で、私は父が居ない寂しさをあまり感じることなく大きくなりました。
絶縁してる間も、いつも心が悶々とし痛かった。
大好きだった頃を思い出し、涙がこぼれて仕方がなかった。
やっと再会できた叔父は、痩せていて 病と必死で戦った様子が手に取るように
分かりました。再会できたけど、もう話すことは出来ず冷たくなってベッドに横たわった状態でした。
恨みの気持ちや憎悪の感情は全く出てこず
「ありがとう。おにいちゃんが居てくれたから寂しくなかったよ。大好きだったよ。」
って感謝の気持ちだけでした。
生きている間に、きちんと話したかった!これは最大の後悔ですね。
法事に来て下さる住職さんが、本当に良い住職さんで
祖父や実母の時にもお世話になっています。
この住職さんのお話が私は大好きで、いつも今日はどんなお話をして下さるのだろう・・と
楽しみにしています。
口調も穏やかで、決して押し付けがましくなく語りかけてくれるような話し方。
上から目線でなく、きちんと私たちと同じ目線に立ちつつも、何かを悟らせてくれるお話。
大切な人が亡くなった時、どうしても「死」を受け入れたくなくて
お通夜や葬儀のときにパニックになってしまい、ただただ悲しいだけかもしれないが
生きていれば死はどんな人にも必ずおとずれる。
生きることと同じくらい「死」も大事なこと。
葬儀は、その方の 『命の卒業式』 であると言えよう。
しっかりと、その大切な方の命の卒業式を見届けて
そのあと、泣きたいだけ泣くのもひとつのお別れの方法かもしれませんね・・・
と静かに語られていらっしゃいました。
(本当は、もっと長くもっと説得力のあるお話だったのですよ~)
それを聴いていて、涙が自然にポロポロとこぼれ、1人で号泣していました
そして、法事というのは
故人のお世話をする・・という意味ではなく
「故人との思い出を偲ばせてくれる時間」を与えてくれているのであるとも教えて下さいました。
これから先、順番として、私も大切な父や祖母、親族たちを
見送ることになるでしょう・・・
そのときは、亡くなった悲しみだけに焦点を当て、取り乱したりするのではなく、
しっかりと 『命の卒業式』を見届けようと思いました。
それが、今までずっと私の卒業式-幼稚園・小学校・中学校・高校・短大
をしっかり見届けてくれてきた父や祖母に対する恩返しのひとつだと思うからです