聖書は、ひとりで黙々と読んでいても途中で飽きてしまったりして、、、
そんな時、一緒にお勉強するお仲間がいたらいいな。。。なんて思うのですが。。。
私は、学生時代のいろんな経験があるので、教会にはアレルギーがあって。。。
教会に行くのは、未だにすごく抵抗があったりします。。。
もちろん、教会の中でただただホッ。。。としたり、
静かに祈ったりするのは好きですが、、、
お説教は苦手なのです(苦笑)
それで思いました。
そうか、今は便利な時代なのだから、ネットを使えばいいのだ。。。と。
YouTubeを探してみると、あるプロテスタントの牧師さんが、
聖書のことをいろいろと教えてくれている動画を見つけました。
それを見ていたら、例えば、「聖書はどこから読めばいい?」とか
「聖書を書いたのは誰?」「聖書というものが完成したのはいつ?」など。
そういった基本的なことも教えてくれたりしたので、これはとってもいいなぁ。。。と。
そう思い、そのまま先に進んでみたのですが、
ある地点までくるとやっぱり、、、違和感を感じ始めたのでした。
そういった違和感に対して、、、
「あぁ、この感じ。。。懐かしい。。。」
・・・なんて、ついつい思ってしまいました(苦笑)
昔、ミッションスクール時代には、自分が何に対して違和感を感じているのか。。。
それが、頭ではしっかり理解しきれていなかったため、
私は、宗教そのものが嫌いになってしまっていました。
けれども、ある程度大人になり、聖書や仏典そのものにあたってみた時、
それは、とても素晴らしいものだと、、、
そう思ったのです。
ですから思いました。。。
そうか、あの頃私が嫌だったのは、「聖書」や「イエスの言葉」そのものではなく、
教会という「組織」の在り方だったんだな。。。と。
そう思ったものです。。。
そう思った頃から、早10年以上の月日が流れ、、、
今回再びそういったものに触れてみて、(ネットではあるけれども)
もうひとつ、違うことを発見しました。
自分はいったい、何に対して違和感を感じているのだろうかと、、、
自分の内側を観察していたら、、、
牧師さんの、こういった言葉に反応していることが解りました。
「聖書は額面通りに受け入れなければならないのです。
そうしなければ、救われません」
「これは間違った解釈です。正しい解釈とは、こうです」
こういった言葉に対して、違和感を感じていたのでした。
「額面通りに受け入れる」というのは、例えば、、、
聖書の中で伝えられている数々の奇跡。。。
たとえば、モーセが杖を振り上げたら紅海が真っ二つに割れたこと。
イエスが水の上を歩いたこと。。。
他にもいろいろありますが、そういったことを、人の心を惹きつけるための
「フィクション」や、ある真理の「メタファー」としてではなく、
「実際に起こったこと」として受け入れ、それを信じなければならないというわけです。
そうしないと、、、救われないのだそうです。
「ええ?じゃあ、私は救われないの?」と、たとえ冗談半分で訊ねたとしても、
「ええ、救われません」ときっぱり言われてしまうことが想像できてしまう。。。
そしていくら、自分の気持ちを解ってもらおうと説明したとしても、、、
「あなたはまだまだエゴが強いですね^^」
と、笑顔でバッサリ切り捨てられてしまう。
これまでの経験から、こういう流れが想像できてしまう私。。。
だから、こういうことに関しては、議論する気すら、もう起きない。。。
でも、、、
ジェームズが、何かのマテリアルの中で、こう言っていたことを
思い出します。。。
「純粋さは、操作されやすいのです」
また、ダライ・ラマこう言っていたことを思い出します。
「健全な懐疑心は大切なものです」
私はどちらかというと、、、
彼らの意見に共感しがちなタイプのようです。
自分とあまりにも考え方が違う人とは距離を置きたいと思うこと。。。
その心理は、人として理解できます。
でも、一番引っかかるのはそこに、、、
「救われる者」と「救われない者」という、大きな大きな
「分離感」が生まれていること。。。
それが、イエスが教えていたことと、どれだけ矛盾しているかということに
なぜ気づかないのだろうと。。。
こういう姿勢、、、こういう在り方はきっと、、、
大昔、ヴァチカンのエゴが大いに肥大した時代の、、、
その名残なのだろうなぁ。。。と思ったりします。。。
教皇たちが、地に堕ちていた時代。。。
ただ、、、
ああいう時代もまた、私たちの発展に必要だったのだと思うから。。。
それは、それです。。。
でも、免罪符とかいろいろやりたい放題だったあの頃と今とでは、、、
やはり、少しずつ変わっていかないと。。。
もちろん今では、そんなバカげたことは行っていませんが、、、
「信じないものは救われない」という姿勢は、、、
根本的なところでは、何も変わっていないようで。。。
「救われる者」と「救われない者」という分離。。。
もう、、、時代遅れです。。。
そういえば、西洋では今は、真面目なクリスチャンの数は年々減っているそうで。。。
多くの人が、そういったところからはもうすでに、抜け出しているようです。
いちおカトリック系のクリスチャンである英会話の先生の、
そのドライさって言ったら、、、ないですよ。
罪?何それ?って感じですから(笑)
彼らはすでに、、、
分離を経験するということを、卒業しつつあるのですね。。。
今では、キリスト教の中心は西洋ではなく、
アジアや南米などの、第三諸国に移っているのだそうです。
ただ、、、そういうのもまた、面白いですね。。。
こういう現象こそが、、、まさに、「神のご意思」なのでしょう。。。
そして私たちはやっぱり、、、
みんな大筋で、似たような道を辿っていくのですね。。。
分離からユニティへ。。。
聖書の解釈は、、、人それぞれ様々あっていいと、、、
私は思う。。。
なぜ、、、その解釈ではなければ、救われないのでしょうか。。。
なぜ、うまく解釈できないだけで、罪びとなのでしょうか?
ジェームズは、自分の書いたマテリアルの解釈について、、、
一言も説明しませんでした。
彼は、それを読む私たちひとりひとりに、、、
解釈の自由を許してくれました。
あまりにも侮辱的なものでなければ、、、
彼は、誰の意見も否定しませんでした。。。
人はいつも、、、誰かに依存します。。。
そういった人間の弱さを知っているからこそ、、、
解釈の自由を許すのだと。。。私は思います。。。
十人十色である私たちのパーソナリティ。。。
そのパーソナリティの存在を、許してくれるのです。。。
パーソナリティもまた、、、ファースト・ソースの表現のひとつであることを、
理解しているからです。。。
人は本当に、、、弱さを持っています。。。
誰かに答えを出してもらって、それを受け入れ信じるほうが、、、
自分自身で答えを見つけ出すよりも、ずっと楽だからです。
でもそれは、自分の答えではなく、誰かほかの人の答えです。。。
私は、、、自分の答えは、自分で探したい。。。
それが、罪なのでしょうか?
エゴなのでしょうか?
ジェームズのマテリアルを読んで、いろんなことを考え、感じる。。。
自分のハートにピタッとくる「何か」を、そこに見つけて。。。
感動に胸震える。。。
そしてそこに、、、自分なりの「解釈」が生まれる。。。
それが罪ですか?
私たちひとりひとりが、「自分の解釈」というものをシェアし合い、、、
時にはお互いの思いを混ぜ合わせたりして、更に素敵な解釈を生み出す。。。
他者の思いも、自分の思いも否定することなく、、、
お互いを、受け入れていくことで、ひとりだけでは到達できなかったところへ
辿り着くことができる。。。
それは決して、自分以外の誰かから押し付けられた答えではなく。。。
もともとの聖書の筆者たちも。。。
そして、イエスも。。。
ジェームズと同じような気持ちでいたのではないのかな。。。と。
私は、そう思いたいです。。。
聖書の「正しい解釈」というものを定義した人というのはおそらく、、、
大昔の偉い神父さん達。
もちろん彼らも、一生懸命それを見つけたのでしょうけれども、、、
何がいけなかったかってそれは、、、
それを「唯一の正しい答え」としてしまったこと。。。
それを振りかざし、、、純粋な人たちを説得し続けてきてしまったこと。。。
自分の考えだけを正当化し、他者に押し付けてきたこと。。。
それが、、、エゴイズムなのです。。。
罪と言うなら、、、
それこそ、、、「罪」なのではないのでしょうか?
ジェームズ風に言ったら、ヒューマン・マインド・システム。。。
そしてそれこそが、、、人間の弱さ。。。
昔、ウイングメーカー・サプリメントで記事を書かせていただいていた時、
こんなことを書いたことを思い出しました。。。
カバラの教えを理解するには、4 通りのアプローチの仕方があると聞きました。
ひとつはそれを「文字通り」として捉えること。
聖書の物語を例のひとつにあげるとしたら、「出エジプト記」の中に登場する
「海が二つに割れた」というあのエピソードを、「実際に起こった
歴史上の出来事」として読むのが「文字通り」の捉え方。
ふたつ目はそれを「寓意的」に 捉えること。
これはそのお話を、内的世界の喩え話として読むこと。
そして 3 つ目は「形 而上学的」に捉えること。
その物語を理論的、哲学的に分析しながら読むことですね。
カバラは、一般的にはユダヤ教の密教であると言われますが、、、
聖書を、いろんな方面から眺め、そこに描かれた象徴(メタファー)を理解し、
その文面の深い部分に隠された暗号を読み解きます。。。
私は、こういう方法大好きですけれども、、、
クリスチャンの人達に言わせれば、それは、「異端」とか、
「間違ったやり方」となってしまうのでしょう。。。
でも本当は、、、キリスト教にも実は密教があって。。。
そこには、教会の教父たちの解釈を通すことなく、、、
自分のハートを通して、イエスから直接語りかけられる言葉があります。
でもそれは、一般的に教会で伝えられる教えのみを信じている人にとっては、
おそらく、とんでもなく「異端」に見えたりするのだろうと思います。。。
そう思うと、、、
どんな宗教でも、、、その顕教的な部分は、ほんの「入口」に過ぎず。。。
それは喩えるなら、、、「ヒーリング」のようなものなのかもしれないな。。。と。。。
まとまりないですが、、、ここで終わりにします。。。
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