昨日はキリスト教カウンセリング講座

3年度Ⅰ期の10回目最終日でした。

担当くださったのは

所長の 賀久 周一先生。


今期のテーマは「パーソナリティと精神保健」でしたが

昨日は総括としての

「教会とメンタルヘルス」。


心の病を持つ人たちが生きることは

「病人」として生きるのではなく

「ひとりの人間」として「病と共に」生きること。

病気はごく一部、それを友達として生きる。


メタ認知(自分を客観的に見る)ことから

周りのことがみえてくる。


何度となく繰り返されたお話ですが

何度聞いても 力強いメッセージを感じます。


社会復帰の糸口として

3つの要素が必要とされると学びました。

そういう場を整えることから 社会への扉が開かれるとも。


1、経験  まず何かやってみること 自分で確かめること

2、仲間  自分の状態をありのままにわかってくれる人たち

3、家族  社会から隔離せず当たり前に受け止めてもらえること


教会は本来そういう場でありたいものです。

確かに私の教会にも多種多様な人が集っています。

年齢、性別、職業、役職

名前しかわからず 何歳なのか 何をしているのかわからない

言われなければ あえて聞かず

詮索することもありません。

だけれど 共に集う仲間 笑顔で挨拶を交わし共に祈ります。


富む人も貧しい人も

健康な人も 病む人も

誰でも安心してこれる場所が教会です。


委員でなくても信徒一人ひとりが意識すれば

それぞれの役割があり

学びと経験の場でもあります。


同じ共同体のメンバーとして 

等しく神様に愛される者であり

共に祈る仲間がいます。


そして お互い暖かく励ましあい 

子どもたちをも皆で見守り育む眼がある

あたかも大家族のような集いがあります。


大おじいさん 大おばあさん おじいさん おばあさん

おとうさん おかあさん おじさん おばさん

おにいちゃん おねえちゃん


様々な人の中で 人は育っていくのだと思います。


そして キリスト教の教えは委ねる信仰です。


自分が神様を選んだのではなく

神が私を選び 共にいてくれると信じること。

以前の私は すべて自分で選択していて

その結果は受け入れるものと考えていました。

今もそういうふうに感じているところもあります。


しかし 自分が選んだのではなく 与えられた使命、

それは人の思いを遥かに超えた存在があり、

ひとりひとりを宝としてあつかってっくださる方からの恵み


だからこそ どんなに辛いことがあっても

必ず最後は悪いようにならないと信じて

いきつくところまでいく

そんな プロセスを生きる勇気をいただける


そんなお話をききながら

今日の私、この場にいられることが

何よりのお恵みかも と思いながら授業を終えました。


授業後の懇親会では色々な話題があがりました。

裁判官制度について

人が人を裁くこと

人が人を死刑に処すること

そんなことができるのか?


かなり深刻な話題でしたが

先生からの一言は重みがありました。


絶対判断と状況判断がありますj。


人を殺しては絶対いけない


しかし

大勢の人がある1人のエゴのために不当に殺される状況で

果たして絶対といえるだろうか?


中絶は絶対してはいけない


しかし

もし生まれてくる命が危険を伴うとしたら

本当に新しい命だけを救うことが絶対なのか?


私たちが判断するのではなく

やはり最後は 

神の手に委ねることしかできないのではないでしょうか?

癒し というと 生きている間だけのことですが

生きたあとの死の世界を恐れない 

死を 恵みと 捕らえられる、

それが救いにつながります。


生きていることだけを中心に考えないで

命の前と後までも考える


よく生きることはよく死ぬこと 

賀来先生の口癖です。


そうです、

クリスチャンは死をおそれない! ハズ?