今朝、わたしたちは断片的にしか人の言葉を受け取っていないというようなことを話していました。

 

断片的というのか、表面的にというのか、

 

どちらにせよそれは全体ではなく、部分的です。

 

 

言葉尻を捕らえるようなコミュニケーションの仕方もありますが、

 

相手の言いたかったことは、きっとそうではなかったのだと思う。

 

 

 

ワタシの言いたかったことも、きっとそうではなかったのだと思う。

 

 

 

本当はもっと伝えたいことがあるのだけれど、

 

そういう言葉になってしまったというだけであって、

 

それをそのまま受け取ってしまうと、

 

コミュニケーションにズレが起き続ける。

 

 

 

だけど、降りられない。

 

 

降りたら誤解されたままなのが、納得できなかったり、

 

悲しかったり、苦しかったり、悔しかったり。

 

 

「わかってもらえない」 

 

  

益々、聴こえない。

 

 

益々、事態は拗れていく。

 

 

 

例えば人参を見たときに、側(がわ)しか見ていないような感じで

 

「あ、この人参は汚れてる」とか

 

「あ、この人参は傷がついてる」とか

 

「形がいい」とか「形が悪い」とか

 

  

人参にどうして傷がついているのか

 

どうしてこんな形をしているのかを考える隙もないような

 

 

「だってこの人参は傷がついてるから売り物にはならないじゃない」みたいな。

 

 

決めつけている。

 

 

 

始まりってなんだかそんな感じかなぁと、

 

人参を眺めながら朝活後に考えていました。

 

 

にんじん。。笑

 

 

 

 

人参の形が悪くても

 

もしかしたらのびのびと育てられたが故のその形かもしれない。

 

 

傷がついたのも、誰かが落としちゃったのか、

 

急速に育つ過程でひび割れちゃったのか、

 

 

わからない。

 

 

 

その目の前に起きていることに対しての背景を

 

私たちはどれくらい感じていくことができるんだろう。

 

 

 

「自分」という視点があって、

 

「自分」という世界ができた。

 

 

 

「ワタシ」という命が生まれて。

 

ワタシの生きる意味をみんな考える。

 

 

 

ワタシという存在や、ワタシというものが存在する意味が知りたくて

 

相手を存在させた。

 

 

 

「誰か」がいないと私たちはワタシを認識できない。

 

 

 

自分がどんな価値観を持っていて、

 

どんなことに喜び、

 

どんなことに傷つくのか、

 

目の前に起こしてくれる人がいるから、私たちは自分を知ることができる。

 

 

 

もう、生きているだけで、十分与えられている。

 

 

 

じゃあ、今日は少しだけ、

 

相手のことをちょっとだけ、

 

その背景まで感じに触れにいってみようかなって。

 

 

 

恐る恐るでいいから、歩み寄ってみるのです。

 

 

 

この人がどういう風に生きてきて、

 

こんな風な価値観を持つようになったのか。

 

 

 

知りたくはないですか。

 

分かってみたくはないですか。

 

 

 

相手がどんな世界をみているのか。

 

 

 

わたしたちが何故にこんなにも違うのか。

 

 

 

それに触れようとして、触れ始めたとき、

 

わたしたちは全く同じなのだと気づくことができるのだと思います。

 

 

 

なんか、ここ最近ずっと同じことばかり言ってる気がしますが、

 

今、きっと大事なんでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

私たちは分かり合いたいだけ。

 

 

みんなうまく生きたいと思ってるだけ。

 

 

 

 

 

 

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