こんにちは!
夢叶サロンAzariah(アザリア)の夢叶セラピスト飯島和佳子です。
「愛」の反対ってなんだと思いますか?
よく、「恐れではなく愛を選ぼう」とか「好きの反対は無関心」とか言われますよね。
ですから、「愛」の反対は「恐れ」とか「無関心」だと思っていませんか?
私が提示する答えは、「愛」です。
「愛」の反対も「愛」
「恐れ」も「無関心」もその先には愛があるだなって思うんです。
でも、「恐れ」も「無関心」も「愛」ではない状態だと思いますよね?
だから「愛を選ぼう」ってなるわけです。
根源的なものというのは一つです。
最初は一つのものから全ては派生していったのです。
私はその根源的なものって「愛」なんだろうなって思うんですよね。
ってことは、「恐れ」も「無関心」も「愛」の派生なんですよ。
何が違うのか。
矢印の方向が違うんです。
愛が向いている方向が違う。
恐れているものの反対側に愛しているものがある。
不安になる反対側に愛しているものがある。
無関心なのは別のところに愛があるから。
変化を恐れるのは本能、嫌いなことがあるのは防衛反応なのですが、それって、変化の先にはまだ「愛」だと確信できない世界があるからだし、嫌いなことって愛が注げないと思っているからなんですよね。
別のところにまだ「愛」が重きを置いているってだけなんです。
私たちって不思議なもので、一回認知すると納得するんですね。
「恐れ」があるのは、別のところに愛があるから。
「無関心」なのは、別のものに愛を注いでいるから。
じゃあ、それってなんなの?って自分に問いかけてみるんです。
何に重きを置いて愛してるの?って。
そうすると自分が大切にしているものがわかる。
「愛せない」って苛立つのではなくて、「こっちを愛しているんだ」ってわかると、なんかスッキリして愛の方向性が変わったりするんですよね。
愛の光を当てた部分って基本的に光が失われない。だから、一回「愛してるんだ」って認識するとその愛はそのままに(時の流れで手放すことがあっても)別のものに愛を向けることができるようになるんです。
いわゆる「怒り」とか「妬み」とか「苛立ち」とか「心配」もそう。
その対象の反対側や裏側に守りたい、愛したいというものがあるから、その感情が湧いて出るのです。
全てのものは「愛」なんだけど、ただその方向が違うだけ。
「恐れ」や「苛立ち」「怒り」「妬み」などに苛まれた時、その感情を向けられた時、そこに隠れている「愛」の方向性を探ってみると、腑に落ちることって多いと思いますよ。
「愛」って言葉が照れ臭いのなら、何を「大切にしたい」のか自分に問いかけてみてください。
そうすると「だから、恐れてたのか!」「これが苛立ちの原因ね」っていうのが見えてくると思いますよ。
ありがとうございました☆感謝を込めて