嬉野のホテルでの新曲発表かいで、NHKの紅白歌合戦の出場宣言をしました。

勿論、皆さんお腹を抱えて笑っていました。

でも、私は、本気で実現しようと想いました。

ですからどこへ行っても、誰と会っても紅白出場の事ばかり言っていました。

特に、ステージでは、夢は、紅白と言っていました。

初めは、皆さん絶対に無理だと言っておられましたが

私がしつこく言うものですからいつのまにかもしかしてと思ってくれる人もでてきました。

また、テレビや新聞など、おもしろ半分に取材があり、いつのまにか、紅白の岸川さんと言う代名詞がつきました。

そんなある日、何かの用事で東京へ行く機会がありました。

私は、折角東京へ来たのだから紅白歌合戦の会場に行ってみたいと妻に言いました。

妻も賛成してくれましたので渋谷のNHK放送センターに行きました。

渋谷の駅前からNHK放送センター行きのバスに乗りました。

約15分でNHK放送センターに到着しました。

紅白歌合戦がおこなわれている会場はNHKホールと言う会館で5000人入る事の出来る大きなホールです。

当日は、あいにく何もイベントをやっていませんでしたので中に入る事ができませんでした。

私は、NHKホールの壁をさすりながら「きっとここのステージに立ってみせる」と心の中でつぶやき、NHKホールと約束しました。

その後、NHK放送センターの中を見物して、NHK放送センターとお別れしました。

そして、渋谷駅行きのバスに乗りました。

バスには、私達夫婦と別に二人のお客様が乗っていました。

一人は、60年配の女性、もう一人は、小学生の男の子でした。

おそらくおばあさんとお孫さんだと想いました。

私達は、聴くともなくお二人の話を聴いていました。

するとおばあさんがお孫さんにこんな事を言っていました。

「今、行ったNHK放送センターのある場所は昔東京でオリンピックのあった場所ですよ」と言っていました。

私は、その言葉を聴いた時、はっと想いました。

それは、昭和39年10月10日、東京で日本で初めてのオリンピックがありました。

それから一か月後の11月11日、日本で初めてのパラリンピック(身体障害者のオリンピック)が同じ場所で開催されました。

私は、16歳の時、そのパラリンピックに出場し、男子100メートル陸上競技で金メダルを受賞しました。

私にとりまして生涯忘れる事の出来ない出来事でした。

そのパラリンピックが行われた場所が今回目指している紅白の場所と知り何か運命的なものを感じました。

そして、より強く紅白への想いが大きくなりました。

幸い、いろんなテレビ局が私達に注目してくれて取材の依頼が沢山ありました。

おそらく、無名の新人でしかも実力も実績もないわたくしが紅白に出たいと言っているのがおもしろかったのでしょう、いろんなマスコミが取り上げてくれました。

その後、再び妻とこのNHK放送センターに行きました。

 

マスコミの取材

五十歳を過ぎての歌手デビュー、市川昭介先生の作曲、NHKの紅白歌合戦への出場といろんな話題がマスコミの取材のネタになりいろんなテレビ局や新聞社の取材がありました。お陰で比較的早く人様に知って頂く事が出来ました。

特に、長崎から東京まで歩いた時は、各県のマスコミが私達を取材してくださり歩いていても皆さんあたたかく迎えてくださいました。

そして、カセットテープやCDを買ってくださったり、温かいお茶のさしいれを頂いた

り本当に感動の旅になりました。

長崎から東京まで歩いた時の事ですが長崎を出発した日の夜、長崎のテレビ局数社が夜のニュースで私達の事を紹介してくれました。

お陰で歩いていてもすれちがう車の中から頑張ってと手を振ってもらいました。

また、諫早市では、飛び込みでスナックにキャンペーンに行きましたが、その店に来ていたお客様が私達の事をテレビで見ておられ、CDを買ってくれたり激励の言葉をかけてくださったりしました。

長崎を出発して一番初めの宿泊地の矢上では、カラオケ喫茶(はれたりくもったり)と言うお店のご主人が常連のお客様を集めて頂きみなさんCDを買ってくださいました。

また、その中におられた長崎カステラのメーカーの社長さんが東京についたらぜひ、取材をしてもらえと言って東京のMXテレビのレポーターの方を紹介してくださいました。

後日、静岡と東京で取材をして頂きました。

出発の時、長崎カステラの社長さんが自分の所で作っているカステラと美味しいお菓子を持っていけと言って沢山くださいました。

そして、皆さん私達をお見送りしてくださいました。

佐賀市では、NHKの受信料を集金するお仕事をしておられる女性の方が私達の活動に感して、NHK佐賀放送局の局長に直談判してくださり夕方の番組に生出演させて頂きました。

山口県では、読売テレビが私達の特集番組を作ってくださり、三日間密着取材をしてくださいました。

お陰でふるさと山口県では、大きな話題になりました。

大阪では、NHKの放送局に飛び込んで行き取材をお願いしました。

幸い、10分後にスタートする「とっておき関西」と言う番組に生出演させてもらう事ができました。

この番組は、近畿地区で放送されている番組で多くの人に見て頂いたと想います。

もし、あの時、10分遅れていっていれば番組に出してもらう事は出来なかったと想います。

そして、改めて自分自身の運の良さを感じました。

静岡では、長崎で紹介して頂きました東京のmxテレビのレポーターの坂本さんが静岡まで来て取材をしてくださいました。

また、ゴールの東京でも到着の様子からnhkの放送センターに入るまで熱心に取材をして頂きました。

この旅で最も印象に残った取材は、テレビ朝日の「目撃ドキュン」と言う番組の取材でした。

あともう少しでゴールの東京、最後の難所の箱根を歩いている時、私の携帯に一本の電話がありました。

相手は、ニューズクリエートと言うテレビのリサーチ会社の人からの電話でした。

お話を聴いているとぜひ、私達の活動を取材したいとの嬉しい電話でした。

そして、長崎東京徒歩の旅が終わり嬉野に帰って来てからの取材となりました。

取材は、四日間の取材で私達家族全員がテレビに出してもらいました。

放送は、取材が終わって二週間後の月曜日の夜7時から30分間放送されました。

この番組は、全国放送の番組で、私の生い立ち、歌手デビューした事、夢の紅白を実

現する為に夫婦で長崎から東京まで歩いた事など詳しく放映して頂きました。

番組の終了と同時に全国のいろんな人からテレビを見たよと言う嬉しい電話がひっきりなしにかかってきました。

おそらく10名以上の人から電話があったと想います。

その中には、歩いている時に出会った人も沢山おられました。

電話は、翌日までかかってきました。

改めて、テレビの影響の大きい事を知りました。

いま、ここで紹介した以外にも各地で多くのテレビ、ラジオ、新聞で私達の旅を取材して頂きました

テレビや新聞などのマスコミのお陰で、東京までの過酷な旅も無事に終える事が出来ました。

もし、マスコミで取り上げて頂いていなければ、誰も私達の事は知りませんので、激励の言葉を貰う事もなく、歩かなければなりませんでした。

多くの人の励ましの言葉を頂く事ができましたのでゴールの東京まで夫婦で歩く事ができました。

私達を取材してくださいました多くのマスコミの方へ心より感謝申し上げます。

また、私達に激励の言葉をかけてくださった全国の皆様へ心よりお礼を申し上げます。