原作 遠藤周作
監督 マーティン・スコセッシ
出演
ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)
ガルペ(アダム・ドライヴァー)
井上筑後守(イッセー尾形)
通辞(浅野忠信)
モキチ(塚本晋也)
イヂゾウ(笈田ヨシ)
キチジロー(窪塚洋介)
フェレイラ(リーアム・ニーソン)
マーティン・スコセッシの作品はどれもイマイチ(タクシードライバー、レイジングブルを除く)だなと思っていた私としては、ほぼ原作を忠実に描いているこの作品を観て、スコセッシのクソマジメさを改めて感じた一作。
この小説を通しての遠藤周作の真意は、本人以外は誰にも分からない。それぞれの解釈はあるかもしれないが、これがマーティン・スコセッシの解釈した小説沈黙なのである。
ネタバレ
昔この小説を初めての読んだ時にも、踏むだけじゃん、キリスト教への信仰を棄てなくとも、形だけ踏めばいいじゃない と思ったものだが、信仰心とは、持ってる者と持ってない者では大きく隔たりがあるのかもしれない。
しかし、信仰心を持たない私でも、日本に生まれ育てば日本土着の八百万の神というものが存在し、日本文化に溶け込んでいるので、自然とそれが身に付いてしまう。それが日本の宗教観であり、「沼地に草は生えない。」と表現されている所以なのだろう。遠藤周作は、日本人でありキリスト教徒でもあるので、この辺の信仰に対する心理的な部分は分かって書いているけど、説明は詳しくされていないので、欧米人には何故沼地なのかがよく分からないかもしれない。
キリスト教も、この1600年代に禁止されず根付いていたら、現代においての宗教観は少し違っていたのかもしれない。結局宗教観とは、何代も何代も継続してこそ根付いくものだと思うから。
私個人の意見としては、ここでキリスト教を受け入れなかった事は良かったんじゃないかなと思う。ヨーロッパ各国にはキリスト教を通して、のちに植民地にしていこうとする政治的な策略がなかったとも言えないからだ。そうなっていたら、日本は今のような日本ではないかもしれないし、国民性も変わっていたかもしれない。←日本の全てが素晴らしいと言うつもりはないが、良くも悪くも日本人で概ね満足している私としては、、、。
もちろん、司祭らは純粋な気持ちで布教活動をしていたのだろうけど。
この後、日本は独自の文化を守るため鎖国に突入するわけです。
また、話が脱線してしまった、、、
「神は何故沈黙しておられるのか。」
何度も何度もロドリゴが神に語りかけるこの言葉。そもそも信仰心とは己の中のものであって、何故神は助けてくれないのかと何かを求める事自体が疑問である。
結局は、終盤であるように「私は、常にお前と共に存在する。」と、自分はキリストであり、ユダ(キチジロー)でもある、という真理に到達するので、ロドリゴのその部分は払拭されるが、普通はそういう風に求め続けると、信仰心はきっと薄れていくんだろうな。
日本ではキャストの演技が絶賛されているが、中でも塚本晋也さんはダントツで素晴らしい演技をされている。やはり、この辺は映画監督だからなのか、心情を表情で表す様は圧巻だった。
原作で、ロドリゴが、キチジローから施してもらった塩漬けの魚に齧り付いた自分の行動を恥じている細かい部分も逃さず表現されていて、原作に忠実に、というスコセッシの気概がみえた。
ロドリゴがフェレイラに説得され、転ぶまでがあっさりしすぎている感、最後の最後でのあの十字架は説明しすぎてる感が否めないが、鑑賞後に色々と考えてしまう映画であるので、興味ある方は観に行かれてはどうかと思う。
あと1点、ポルトガル人なのに何故英語なのか、あの時代の農民が何故あんなに英語が話せるのか、という事は考えない方がいい。そこは、国際的に公開される作品に対しての愚問。原作でも、ポルトガル語と日本語で会話している事になっているが、それを日本語で書いているように、国際共通語の英語を使用しているだけの話であり、重きを置くところはそこではない。
シェイクスピアでも、キングアーサーでも映像化、舞台化で使われているのは古代英語でなく、現代英語である。
忘れるとこだったけど、高山さん素敵でしたよっ
あのシーンの為に、台湾まで行かれた事を思うと愛しくてたまりません、、