日々の出来事や、考えたこと、参拝した神社のことなどを徒然なるままに綴っていきたいと思います。
兵庫県加東市御嶽山にある、西国三十三所観音霊場第25番札所の清水寺(きよみずでら)です。京都の第16番札所の清水寺と同じ名前のため、こちらの清水寺は通称・播州清水寺という。1800年前インドから来た法道仙人が御嶽山に鎮護国家・豊作を祈願したのが始まり。仏教以前の山岳信仰の行者によって開かれた寺院。627年推古天皇勅願により、根本中堂が建立され、仙人一刀三礼の秘仏十一面観音、脇士毘沙門天、吉祥天の聖像が安置された。法道仙人が水神に祈り湧出した聖泉「おかげの井戸」が清水寺の名前の由来となっている。仁王門金剛力士像金剛力士像石垣の道何故か山の寺の中にドッグラン。ドッグラン薬師堂中には東京芸大・籔内佐斗司作の十二神将像がある子神の宮毘羅(くびら)大将丑神の伐折羅(ばさら)大将寅神の迷企羅(めきら)大将卯神の安底羅(あんちら)大将辰神の頞儞羅(あじら)大将巳神の珊底羅(さんちら)大将午神の因達羅(いんだら)大将未神の波夷羅(はいら)大将申神の摩虎羅(まこら)大将酉神の真達羅(しんだら)大将戌神の招杜羅(しょうとら)大将亥神の毘羯羅(びから)大将のはずだが、全ての表示が違っている。?大講堂地蔵堂根本中堂荼枳尼天神社鐘楼(開運の鐘)遥か遠くに瀬戸内海
広島県福山市新市町宮内に鎮座するのが、備後国一ノ宮の吉備津神社(きびつじんじゃ)。素盞嗚神社から北西に30分程歩いたところにある。大同元年(806年)に備中吉備津宮から勧請されたと伝えられる。祭神は大吉備津彦命。備後国は元々あった吉備国が、備前、備中、備後と分国されたものの一つである。吉備国に祀られていた中国地方一の大社・吉備津神社は備中国一ノ宮となり、備前国、備後国にもそれぞれ分社された。鳥居下隋神門櫻山神社桃太郎と3匹の家来の像上隋神門神楽殿拝殿本殿境内北側にある祖神社、彰徳宮、白髪神社吉備津天満宮厩戸皇子神社武内神社疱瘡神社十麻里二柱神社境内南へと続く十二神社への案内稲荷神社の社号標柱十二神社への参道十二支の像が並ぶ桃太郎もいる稲荷神社十二神社多理比理神社山雷神社真名井神社秋葉神社、四所神社大山祇神社吉備津神社近くにある御池厳島神社への参道池にかかる橋境外摂社の厳島神社境外摂社の葫神社
広島県福山市新市町戸手に鎮座するのが備後国一ノ宮の素戔嗚神社(すさのおじんじゃ)です。天武天皇の時代(673〜686年)の創建と伝わる。祭神は素戔嗚尊、稲田姫命、八王子。素盞嗚神社の社地は「早苗の森」と呼ばれ、牛頭天王が祀られていた。牛頭天王は素戔嗚尊のことで、疫病除けの信仰があった。備後国風土記逸文にある疫隈国社は当社であり、蘇民将来の伝承発祥の地と云われている。社頭右側にある柱祇園祭の由来鳥居随神門参道祭の後の境内拝殿参拝前日は当社の祭、祇園祭があったようだ。て素戔嗚尊の邸があった跡にあっとされる神代杉の跡に建てられた石碑
宮島の神の山、弥山に登ってきました。とはいえ、宮島ロープウェイを利用してですが。紅葉谷公園奥にある紅葉谷駅からロープウェイで榧谷駅まで行き、そこで乗り換えて獅子岩駅までさらに上がります。獅子岩駅の外にある弥山案内図。獅子岩駅からさらに30分程かけて弥山山頂まで登ります。登山道の途中に大きな岩がありました。瀬戸内海がチラリと見えた弥山本堂観音堂、もしくは文殊堂くぐり岩山頂手前の岩から眺め山頂展望台から山頂に並ぶ巨岩を眺める瀬戸内海瀬戸内海の島々廿日市市本土が見えます。磐座なのだろうか。山頂には巨岩がごろごろ。山中でも鹿に会いました
広島県廿日市市の宮島に鎮座する安芸国一ノ宮が厳島神社(いつくしまじんじゃ)です。安芸国佐伯郡の式内社にして名神大社。かつては伊都伎嶋神社(いつきしまじんじゃ)と呼ばれていた。祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神。推古天皇が即位した年に、宮島の住人の佐伯鞍職に神勅がくだり、勅許を得て御笠浜に創建したのが当社の始まりとされる。その後平家一門により厚く信仰されて、安芸国一ノ宮にまでの社格になった。日本三景の標柱宮島の鹿。奈良の鹿より大人しい感じフェリー乗り場から続く海沿いの参道の鳥居海の上に社殿海上の大鳥居。朝の7:30頃。後6時間ほどしたら干潮で鳥居のしたまで行けるそうですが、今回は諦めました。狛犬(阿形)狛犬(吽形)厳島神社の回廊入口。厳島神社の社殿は大きく摂社の客(まろうど)神社と御本社を主として回廊で結ばれている。客神社前から見た社殿回廊客神社拝殿東回廊揚水橋回廊本社拝殿平舞台から大鳥居に向かって突き出た舞台に写真を撮るために並ぶ人たち本社社殿左門客神社西回廊方面を望む左楽房からの大鳥居西回廊へ大国神社大国神社長橋天神社西回廊から反橋能舞台能舞台反橋
広島県廿日市市上平良に鎮座する速谷神社(はやたにじんじゃ)。安芸国佐伯郡の式内社にして名神大社です。祭神は鮑速玉男命(あきはやたまおのみこと)。初代安藝国造を賜わった安芸建国の祖神。延喜式では安芸国一の大社で宮島の厳島神社よりも格上だったが、いつしか社勢が衰え、厳島神社の摂社のような扱いを受け、速田明神と呼ばれていた。明治になって、社名が現在の速谷神社へと戻された。社頭の社号標柱 鳥居参道参道に横たわる猫参道を真っ直ぐ進むと楼門に当たる神門拝殿と境内狛犬(吽形)狛犬(阿形)
広島県安芸郡府中町に鎮座するのが、安芸国の式内社にして名神大社の多家神社(たけじんじゃ)です。神武天皇のゆかりの地と言われている。神武天皇東征の時、安芸国に7年間留まれた。古事記では多祁理宮(たけりのみや)、日本書紀では埃宮(えのみや)と呼ばれる場所の跡に祀られた神社だと考えられてきた。ところが多家神社は中世には所在が分からなくなっていた。近世になって総社と松崎八幡宮の間で自分ところが多家神だとのあらそいが絶えず、明治になってからその中間にある誰曽廻森(たれそのもり)に総社と松崎八幡宮を合わせて多家神社を再興した。主祭神は神武天皇と安芸津彦命。相殿神に神功皇后、応神天皇、大己貴命が祀られてる。神社入り口社号標柱一ノ鳥居狛犬(吽)狛犬(阿)境内への石段と誰曽廻森の巨きな樹木石段を上がると鳥居と境内の参道拝殿本殿宝蔵。広島城内あった稲荷神社の社殿を移築したもの。誰曽廻森の北西にある境内社の貴船神社。境内社の天神社
この日はいい天気だったので、以前から行ってみたかった天長の滝・甲坂不動尊まで足を伸ばしてみました。甲坂公園からの道のりはGoogle mapsでは片道2.1kmの徒歩35分となっていたけど、実際は2.5kmで、やや登りの坂道だったため行きは50分強かかってしまった。帰りは30分。辻の案内。左に行くと甲坂不動尊。椿ミツバツツジ?石仏を祀った祠祠と桜の木分かれ道を右に林道不動谷線に入りました天長の湧水ここで湧水を飲んで一息入れました。あともう少しです。天長の滝に向かう石段が見えてきました。登山道(参道)天長の滝の前に、お堂がありました。不動尊の像と右に弁財天と白蛇の像(宇賀弁財天か?)お地蔵さん役小角の像天長の滝滝が流れる岩肌に、空海が爪で彫ったと伝わる不動明王の磨崖仏があるらしいのだが、よくわからなかった。遠くに、久美浜湾に大明神岬、三角のかぶと山が見えたけど、写真は霞んでよく見えない東屋とお堂天長の滝 不動明王 御鏡岩
久美浜町栃谷の奥の集落、甲坂に鎮座するのが山木神社(やまきじんじゃ)です。甲坂公園の近く、里山の尾根の上の少し小高くなった所に社殿はありました。鳥居社殿本殿背後のさらに高い場所にある境内社古墳に咲き誇る桜の木
春日大社(かすがたいしゃ)は、奈良県奈良市は御蓋山の西麓にある。藤原氏の氏神として崇敬され、皇室からも重要視された。祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)の四柱である。由緒書によると春日大社は、768年に鹿島神宮の祭神・武甕槌命を春日の御蓋山(みかさやま)に奉遷したのが始まりとされる。同時に香取神宮の祭神・経津主命も遷座し、枚岡神社から中臣氏(藤原氏)の祖神の天児屋根命と比売神を勧請し、四柱の神を祀ったのが春日大社。本殿は春日造とも呼ばれる建築様式を持ち、第一殿に武甕槌命、第二殿に経津主命、第三殿に天児屋根命、第四殿に比売神を祀る。JR奈良駅から三条通を東に進むと、春日大社の一之鳥居にぶつかる。三条通は春日大社の参道に繋がる道だったのだ。長い参道です。参道脇の奈良公園内に春日大社の神使である鹿がちらほらと。武甕槌命は鹿島から鹿に乗ってこの地にお遷り遊ばされたそうなので、大切にされてきたのです。石造の常夜燈があります。まだまだ続く参道石造の常夜燈は沢山あります常夜燈と鹿(^-^)春日大社の石碑一之鳥居から1キロほど歩いて、ようやく二之鳥居まで来ました。二の鳥居を潜ると左に境内社の祓戸神社。ここで穢れを祓って、大社にお詣りします。伏鹿手水所立派な鹿の像常夜燈と鹿表参道を進む境内図南門の楼門参拝所大宮(御本殿)特別参拝図本殿参拝に向かいます。東の回廊御蓋山を遥拝本殿を参拝した後、後殿の境内社を参拝。境内社の多賀神社西の回廊大杉と中門・御廊中門と林檎の庭慶賀門本殿から北東にある若宮に向かいます若宮の周辺には若宮含めて十五の社がある。人生の難所を守ってくれる神々だそうです。その社を巡ることを若宮十五社めぐり、という。本宮神社遥拝所本宮神社とは武甕槌命が白鹿に乗って天降られた御蓋山頂上にある神社。御蓋山は禁則地なので、直接お詣りすることはできない。本宮神社遥拝所春日神社境内ナギ樹林若宮への参道若宮大楠若宮その左に、写真には写ってないが一童社、兵主社、南宮社がある、若宮の祭神は天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)。天児屋根の御子神である。社伝によると若宮は、平安の中頃に第四殿に姿を出現された水を司る神様。当初は第四殿の内に、その後獅子の間にお祀りされていたが、1135年に現在地に遷宮したとのこと。若宮拝殿夫婦大国社若宮この辺りまではちらほら他の参拝客もいたが、ここより先へ行くと他人と会うことが少なくなった。左に広瀬神社、右に懸橋社(葛城神社)三十八所神社佐良気神社金龍神社紀伊神社へと続く奥の院参道春日明神遥拝所鎌倉時代にここにある9個の石から、明恵上人が春日神社本殿を遥拝されたという。静かな境内の林に参道宗像神社伊勢神宮遥拝所若宮十五社の一番奥にある紀伊神社そのためか、春日大社奥の院ともいわれる。紀伊神社の左に龍王珠石この石群は善女龍王が尾玉を納められた所ということですが、詳細はよくわかりません。枚岡神社遥拝所
JR奈良駅から三条通を東に進むと南円堂の標識がありました。南円堂への石段西国三十三所観音霊場第九番札所の興福寺南円堂です。朱塗の八角形の建物で、どことなく法隆寺の夢殿を思い起こさせる。興福寺は藤原氏の氏寺として勢力を拡大。鎌倉から室町期にかけては、大和一国を支配するほどの権勢を誇った。だが明治の廃仏毀釈では一時廃寺同然となり、現在の興福寺は奈良公園の一部のようになっている。南円堂(重文)の本尊は不空羂索観音。最近再建された中金堂。綺麗!室町時代に再建された東金堂(国宝)東金堂と五重塔興福寺国宝館少年のような阿修羅像で有名な八部衆立像も安置されてます。興福寺五重塔(国宝)
那智の滝を神格化した飛瀧権現(ひろうごんげん)が、青岸渡寺から少し降ったところにある。那智大社の摂社の飛瀧神社(ひろうじんしゃ)である。那智大社から那智御滝まで降る参詣道石畳の道那智大滝飛瀧神社参道入り口の鳥居石畳の参道滝が見えてきました。那智御滝の前の鳥居。飛瀧神社には社殿は無く大滝を直接お詣りする。飛瀧神社作務所の傍から石段を登っていくと飛瀧神社拝所に行ける。より大滝を間近に見ることができる。日本一の落差だと言われる高さ133mの滝。
西国三十三所観音霊場第一番札所が、那智山青岸渡寺(なちさんせいがんとじ)である。神仏判然令のせいで那智大社と別れてしまっているが、元は一体だったのだ青岸渡寺は元は那智山如意輪堂として崇敬されてきた。那智山の開山は、4世紀にインド僧の裸形上人が、那智大滝で8寸の観音菩薩を感得したことが始まりとされる。如意輪観音を祀った本堂水子堂阿彌陀堂三重塔と那智の滝青岸渡寺三重塔。昭和47年に那智参詣曼荼羅を元に再建された。那智山の信仰はは滝の信仰から生まれたと言われてますが、元々は妙法山への信仰があり、修験の行者が多くいたところです。
那智勝浦町に鎮座するのが、熊野三山の一つ、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)です。熊野三山として組み込まれたのは、本宮、新宮の信仰が興起され、これをもって熊野地方一円の統一的信仰が生まれてきたものによるらしい。主祭神は熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)。熊野家津御子大神、熊野速玉大神も配祀している。青岸渡寺を含めて那智山の信仰は、日本一の落差だという那智の大滝を御神体として祀ることによるもの。那智大社の鳥居大門坂から遷された多富気王子(児宮)那智大社への石段那智大社の境内那智の山々礼殿他の熊野三山の二社と同じく十二柱の神様を祀っていて、それに加えて滝の神様も祀ってるので、十三所権現とも言われる。社号標御神木の大楠(樟霊社)那智の滝
熊野川の河口近くに鎮座するのが熊野三山の一つ、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)。かつては熊野速玉神社(くまのはやたまじんじゃ)現社地から南にある神倉山にある巨岩、ゴトビキ岩に熊野の神が降りてきて、そこが熊野大神を祀った始まりとされる。景行天皇の時代に新しい宮を作って遷座し、神倉山の元宮に対し速玉大社は新宮と呼ばれた。主祭神は熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)熊野本宮大社をお詣りした後、バスで1時間少し走って新宮の街に着いた。速玉大社にお詣りするためだ。最寄りのバス停から徒歩5分ほどで神社の入り口まで来た。社号標鳥居境内社の八咫烏神社境内狛犬狛犬大禮殿神門「全国的熊野神社 総本宮」の扁額拝殿第一殿の結霊宮には熊野夫須美大神、第二殿の速玉宮には主祭神の熊野速玉大神を祀る。上三殿証誠殿若宮神倉宮八社殿禅地宮と聖宮児宮と子守宮一万宮、十万宮、勧請宮飛行宮、米持宮十二のお宮を祀ることから、新宮十二社大権現として崇敬を集めてきた。境内社の熊野恵比寿神社境内社の新宮神社境内ご神木のナギの巨木この後、ゴトビキ岩を祀った神倉神社に行くつもりだったけど、古道歩きの後で足がガクガクで旧な石段に怖くて登れなかった。ので、またいつか足が万全の時に参拝することにしました。
熊野三山の一社、熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)は、紀伊山地の熊野川沿いの高台に鎮座してる。かつては熊野坐神社(くまのにますじんじゃ)と呼ばれた。元々は500m南の熊野川の中洲の大斎原(おおゆのはら)にあったが、明治22年に大水害にあいその後現社地に遷された。主祭神は家津御子大神(けつみみこのおおかみ)で、素戔嗚尊と同体とされた。神仏習合では本宮の本地仏は阿弥陀仏とされ、熊野への参詣は死の国への詣で、蘇りの道であるとして中世より蟻の熊野詣でと言われるほど賑わった。社号標参道入り口の鳥居熊野大権現の幟が立ち並ぶ参道石段マスクをしてる狛犬口元が見えないので、どちらが阿でどちらが吽なのか分からない。拝殿八咫烏大黒石亀石神門境内左側の一つの建物に第一殿と第二殿第一殿には那智の神様の夫須美大神(ふすみのおおかみ)第二殿には新宮の神様、速玉大神(はやたまのおおかみ)境内右側に第三殿と第四殿第三殿には主祭神の家津御子大神(けつみこのおおかみ)が祀られてる。第四殿には天照大神(あまてらすおおかみ)旧社号標大斎原への参道大斎原の大鳥居熊野本宮大社旧社地大斎原の碑八咫烏
本宮大社参拝の翌日、那智山への参詣のために熊野古道の一部である大門坂を歩くことにした。那智駅からバスで大門坂バス停まで。大門坂の標石振ヶ瀬橋前の鳥居。橋を渡ると大門坂が始まります。大門坂の入り口には夫婦杉と呼ばれる樹齢800年の巨木が、門のように両脇に聳え立つ。石畳の道が始まります。多富気王子跡十一文関跡昔、通貨税をとったところあと少しで坂の上まで着きます。大門坂を上がったところから下方を見やる。大門坂入り口からここまで約30分。道標那智山への参道観音様熊野那智大社の鳥居大門坂から移された多富気王子(児宮)
熊野三山への参詣の道、信仰の道である熊野古道を歩きたいと思ってた。でも長い距離は無理なので、中辺路(田辺から熊野本宮大社までの参詣道)の終盤を歩くことにした。田辺駅から本宮大社までバスに揺られ、本宮大社前から発心門王子バス停までさらにバスで移動した。バス停から熊野本宮大社とは反対の西に熊野古道を300ほど行くと、発心門王子跡がある。大阪から熊野までの街道沿いには、俗に熊野九十九王子言われる熊野権現の末社があり、熊野詣でにはその王子で潔斎をしながら進んだという。発心門王子跡発心門王子というのは、発心門(悟りの心を開く入り口)とされる大鳥居があったことに由来する。その鳥居から熊野本宮大社(熊野坐神社)の神域に入ると考えられていたらしい。発心門王子をお詣りした後、いよいよ熊野古道歩きを開始する。発心門王子バス停まで戻るバス停を過ぎる道の脇に石仏を祀った祠分かれ道に八咫烏が道を示してくれる杉の木立の舗装路を歩く。発心門王子から徒歩30分程で水呑王子跡。水呑王子跡の案内のあるここは、分校の廃校跡らしい。ここから古道っぽくなってきます。山道を行きますよみがえりの聖地熊野を示す石碑蓑を被った石仏ここにも石仏が道標果無山脈伏拝王子跡まであと少し水呑王子から30分ほど歩けば、伏拝王子跡。伏拝王子跡の向かいには休憩所がある。伏拝王子跡へと続く石段伏拝王子跡の石の祠。熊野三山への参詣者はここで本宮の森を遥拝したのだという。伏拝王子から熊野本宮大社旧社地の大斎原(おおゆのはら)を遠望できるの筈なのだが、遠くてよく分からない。11時半すぎに、伏拝王子茶屋(無料休憩所)でお弁当を広げる。お昼には丁度いい感じですり予め頼んでおいた川湯温泉の民宿大村屋さんの熊野古道弁当(お茶付き)1200円を本宮前バス停で受け取った。めはり寿司、塩むすび、赤飯のおむすび、混ぜごはんむすびにおかずが付いてます。1時間少し歩いた後のお昼休憩はリフレッシュできました。12時ころ本宮に向けて再出発です。再び山道になってきます「南無大悲観世音菩薩」の石碑前日の雨のせいで、少しぬかるんでるとこがあります。伏拝王子から20分ほどで三軒茶屋跡に着く車道の上を跨ぐ橋三軒茶屋跡かつては小辺路(高野山と熊野本宮大社を結ぶ参詣道)と中辺路の分岐点にあった場所に三軒の茶屋があったそうです。小辺路、熊野本宮大社、伏拝王子への分岐の道標こちらは小辺路から中辺路に合流した道関所を模した門所々に石畳がある。三軒茶屋跡から10ほど歩けば、ちょっとより道の看板。左に行けば、近年整備された展望台に行ける。右は熊野古道。木段を登っていくと開けた場所に出ます。左側に熊野川が見えました。展望台から大斎原の大鳥居が望めます。展望台からそのまま降っていき熊野古道に戻りました。およそ10分ほどの寄り道でしょうか。左手に墓地が見えてきました。祓殿石塚遺跡住宅地が見えてきました。本宮大社まであと少し。ちょっと寄り道の分岐から30分ほどで祓殿王子祓殿王子跡の祠祓殿王子は最後の王子に当たり、参詣者がここで旅の穢れを祓い落としたという。僕も穢れを祓うつもりで参拝。本宮大社裏の鳥居裏からの参道本宮大社を参拝後、このまま旧社地である大斎原まで向かいます。熊野大権現の幟大斎原へ向かう参道田圃に囲まれた大斎原の大鳥居熊野本宮大社旧社地の大斎原の碑。もう足が痛いので、ここが執着点としました。古道歩き約2時間20分(お昼休憩30分含め)。コースタイムよりゆったりとしたペースですが、自分にとっては結構いっぱいいっぱいでした。でも信仰の道、参詣道を歩くのは楽しかったです。八咫烏熊野川の河原。上流にダムができてるので、水量は少ないです。河原の土手から見た大鳥居
新田神社(にったじんじゃ)は鹿児島県薩摩川内市宮内町に鎮座する薩摩国一ノ宮の一つです。神亀山の上に社殿はあります。社殿の背後には、天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の御陵とされる可愛山陵(えなみささぎ)がある。主祭神は天津日高彦火瓊瓊杵尊(あまつひだかひこににぎのみこと)。配祀に天照皇大御神(あまてらすすめらおおみかみ)と正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)。大鳥居神橋参道階段西門守神社東門守神社さらに続く階段階段途中開けた場所があり、いくつか境内社がある。高良神社(天鈿女命)中央神社(大山咋命)風早神社(級長津彦神、級長津姫神)階段はまだまだ続きます。木々の覆いの向こうに日に照らされた社殿が見えてきました。さて、もう少しです。社殿手前の石段に大楠。樹齢2000年と伝わるが、実際は650〜800年らしい。それでも長生きです。地上2mのところに大穴牟遅命の木像が彫刻してあるという。与謝野鉄幹が新田神社を訪れた際歌を詠んでいる。「可愛(え)の山の 楠の大樹の 幹半ば うつろとなれど 広き蔭かな」社殿狛犬狛犬この神社も本殿、幣殿、拝殿、舞殿、勅使殿と縦一列に並んでいる。ここでも拝殿より手前に勅使殿。?社殿を左から見たところ。社殿を右から見たところ社殿の左手に本殿背後にある可愛山陵への参拝路が可愛山陵への階段。宮内庁の管理らしい。瓊瓊杵尊の陵墓とされる可愛山陵(えなみささぎ)社殿から階段を見下ろしたところ降っていきます。大鳥居が見えます大鳥居の向こうには道路を挟んで南向きの参道が続いてます。この長い参道は川内川まで伸びているそうです。
鹿児島県霧島市隼人町に鎮座する大隈国一ノ宮の鹿兒島神宮(かごしまじんぐう)です。JR隼人駅から徒歩20分ほどの距離にある。祭神は天津日高彦穂穂手見尊(あまつひだかひこほほでみのみこと)と豊玉比売命(とよたまひめのみこと)。祭神の彦火火出見命は「海幸彦・山幸彦神話」の山幸彦である。霧島神宮に祀られている天孫・瓊瓊杵尊と木花開耶姫の間に生まれ、筑紫の国開拓の祖神として、この地に高千穂宮を営んだと伝える。相殿に帯中比子尊(仲哀天皇)、息長帯比売命(神功皇后)、品陀分気尊(応神天皇)、中比売命(同皇后)を祀り、正八幡宮(国分八幡、大隈せ八幡とも)と称された。参道の石段参道階段。左右に御門神社境内樹齢800年の御神木参道手水舎鹿児島の神社は本殿、拝殿、勅使殿と並んでるところが多いように感じる。本州では勅使殿という建物はあまり聞いたことがない。勅使殿?正八幡宮の扁額が。本殿は工事中社殿拝殿を横から見たところ。境内社の四所神社(大雀命、石姫命、荒田郎女、根島命)武内神社(武内宿禰)風早神社(日本武尊)神馬舎