幼少の頃から目も見えず、耳も聞こえぬ障碍を抱えながら、後年、世界の障碍者教育と福祉に多大なる影響をもたらしたヘレンケラーが、生涯、尊敬してやまなかった日本人の存在がありました。

 その名を塙保己一(はなわ ほきいち)という江戸時代の国学者です。

 

 ヘレンケラーは幼い頃、両親から「あなたが目標とすべき人物がいます。塙保己一という日本人で、目が見えなくても偉業を成し遂げた人です」と言われ、実際にヘレンケラーが人生の手本にした人物と言われています。

 塙保己一とは、いかなる人物なのか。彼は七歳で失明し、十三歳で母親を亡くし、十五歳にして江戸の盲人一座に入ります。当時は目の見えない人は、盲人一座に入るというのが一般的なコースで、そこで、三味線や琴、あんまや鍼を習うことにより、生業を得るための必須の過程といっていいものです。

 ところが塙保己一は、大変不器用で、いくら修行しても、なかなか一人前になるには程遠いものでした。そのため、一時は世を儚んで、命を絶とうとしたこともあるといいます。しかし、その傍ら、学問が好きなところから、一座の師匠から「三年間はお金をだしてやるから、学問をとことんやってみろ」と言われました。ただし、三年たっても、学問でも芽が出なかったら、実家に帰すという条件つきでした。

 

 盲人として落ちこぼれの保己一は、それこそ死に物狂いで学問にはげみました。のちに「日本に古くから伝えられている貴重な書物を集めて、次世代に伝えていきたい」との志を立てて、四十一年の歳月をかけて編纂、刊行したのが、国学・国史を主とした一大叢書『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』でした。

 古代から江戸時代初期までの約1000年間に書かれた文献を17244枚の版木にまとめ上げるという途方もないものでした。

 保己一の生涯を通して伝えられることは、人間の可能性、ということです。

 

 盲目で、しかも落ちこぼれであった保己一が、前人未到の大事業を成し遂げることができたということです。

 ある日、保己一が歩いていると、鼻緒が切れてしまいました。ちょうど目の前に版木屋があったので、鼻緒の代わりになる布切れを分けてほしいと頼むと、店の主人は、「何だ、めくらのくせに!」と言って、布切れをなげつけられたといいます。後年、『群書類従』の刊行にさいして、わざわざその版木屋に仕事を依頼しました。「あの時は大変な仕打ちを受けました。でも、あの時ははげましていただいたと思っています。あの時のくやしさを忘れることなく、人さまから後ろ指をさされないような人間になろうと、つよく決意したのです」といって、その時の布切れを渡したというのです。

人は何が幸いするかわからないものです。