急流の上のマリつき

 

 ある人が禅僧に「生まれたばかりの赤ん坊のいのちは、どんな具合に働くのか」と尋ねました。

 すると、禅僧は「急流の水の上でマリつきをするようなもの」と答えたといいます。

 

「急流の上でマリつき」とは何をあらわしているのでしょうか。

 

 実は、これは単に質問した人の特異な興味というものではありません。

 私たち一人ひとり、誰もが関係のあることを表している言葉なのです。

 

 昔の人は、いのちを球で表しました。つまり、このマリというのは、私たちのいのちを表しているのです。

 大きなボールを地面の上に置くことをイメージしてください。

 地面の上に静止しているボールは、地面と一点で接しています。二点でも三点でもありません。したがって、このボールに外から何らかの力が加われば、力の加わった方向にボールは動くことになります。

 

 これがもし二点か三点で接していれば、動く方向は自ずと制限され、場合によっては、外部から力が加わっても動かないということが起こります。

 

 この一点で接していることにより、どの方向に動くこともできる自由が確保されているということになります。つまり、ボールが地面に接している状態というのは、いのちの自由を表しているのです。

 そして、ボールがコロコロと動き出したとしても、常に地面と一点で接している限り、ボールは自由を確保しているわけです。そして、どのように動こうとも、地面に接している一点の真上にボールの中心はあります。中心は、接点の上に離れた位置に常にあります。

 

 何をもっともらしく、長々と当たり前のことを説明しているんだ、と思われるかもおられるかも知れません。もっともなことです。しかし、これが冒頭の禅僧の答えを読み解くための前提なのです。

 

「生まれたばかりの赤ちゃん」とは、私たち一人ひとりのいのちのことです。だから、この質問した人が求めているものは、「刻々と新生しているいのちに目覚めている人は、どのような人生を送りますか」という意味をたずねたのです。

 

 その質問に対して禅僧は、

「急流の水の上でマリつきをするようなもの」

 と答えています。

 何のこっちゃ、と私たち一般人は思いますよね。何のことを表しているのでしょうか。

 

 激しく流れる水の上でマリつきなんてできるわけがありません。

 しかし、それでも急流の上でマリつきができる方法はあります。

 それは、マリに回転を与えて、急流と同じスピードでついてやることができれば、水からの抵抗がかからないので、そのまま跳ね返ってきて、流されることはありません。

 

 激しい水の流れとは、私たちが生きている世界のことです。この激しい流れを仏教では「暴流」というそうです。この激しい暴力的な世界に生きるためには、この激流でマリをつく要領で生きなければならないと言うことを教えています。

 常に暴力的な世界にあって、「いま・ここ」という一点で生きるということです。一瞬で過ぎ去ったことに執着していると、あっという間に激しい流れにすくわれてしまいます。

 だから、過ぎ去った過去にも、まだ訪れていない未来に不安を持つことなく、「いま・ここ」に全力で生きるということなのです。

 

 世界の流れに従いながら、しかも世界の流れから自立していく知恵を教えてくれています。そうは、いっても過去の執着や未来の不安から無縁でいられない私たちですが、少なくとも、このような知恵を働かせたいものです。