この本は、精神科医である名越氏が、

私たちの生活の中に仏教を取り入れていく方法を紹介しています。

 

名越氏は「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いに、

精神医学や心理学を学んでも、答えを出せませんでした。

 

そして、「この問いに対して実践レベルで答えを出せるのはおそらく仏教しかない」

「仏教の『行』と『方便』ほど、具体的な指針を示してくれるものはない」と確信しました。

 

少し抜粋させていただきます。

 

 

 

        *~*~*~*~*~*~*~*~

 

 

*「私は怒っています」と唱える行と、アイロン掛けの行

 

 

日常の中で 「しまった! 怒ってるぞ・・・」と気づいた瞬間、

「私は怒っています」と三から五回、ゆっくりと心の中で唱える。

           (スマナサーラ長老が紹介されていた方法)

 

日常の中に取り入れやすい行としては、掃除や洗濯、炊事といった家事を

行にするのも有効。

 

拭き掃除だったら、「部屋をきれいにする」という目的をひとまず忘れて、

「目の前のテーブルを拭き清める」という行為に集中する。

 

 

 

*行に取り組んだ結果として心が落ち着く

 

 

アイロン掛けなら、「アイロン」や「衣服」といった対象と、自分自身とを

同調させる。

 

そういう意識でアイロン掛けを行っていくと、

「自分」がアイロンをかけているのか、

アイロンが先導して自分の手を動かしているのかわからなくなる瞬間が訪れることがある。

 

そんなふうに自他の境界線が融けあい始めると、心が落ち着いてくる。

 

 

‘超スローモーション”で動作を行う。

 

例えば手を何気なく前に出す、という行為をできるだけゆっくりと行う。

 

このとき、「手を動かしている」という意識を消し、

かわりに「手が勝手に動いている」という感覚をつかむようにする。

 

そしてその感覚の流れに乗るようにして、手を手自身の自動操縦に任せる。

 

スピードは、本当に動いているかいないかの低速度で行う。

 

うまくいけばとても気持ちが良い上に、自分の身体と同調する訓練にもなるし、

心もとても落ち着く。

 

こういう経験を積んでゆくと、「自分の身体」を対象に、行をやるということも可能。

 

ここまで来ると、瞑想と行とは、ほとんど地続きであるということもわかる。

 

「対象と同調する」という行の考えは、日常生活のあらゆる場面に応用できる。

 

 

 

 

*方便こそ究竟なり

 

 

方便とは、「社会や、日常の中での実践」。

 

大乗仏教の教えは、大きく分けて三つ

理論である「法」、

心を落ち着かせる方法である「行」、

日常の中で実践する「方便」

 

法を学ぶだけでは頭でっかちになるし、

行に取り組むだけでは、自己満足に陥る危険がある。

社会の中で他人に親切にしたり、貢献したりする方便を、

法や行と合わせて行うことによって、初めて悟りが完成するというのが、大乗仏教の教え。

 

 

 

*みんなが救われなければ悟りはない

 

 

仏教の曼荼羅図を見ると、一人ひとりの人間は、どれほど孤立しているように見えても

必ず、世界の巨大なネットワークの網の目のどこかにつながっている。

 

だからこそ僕らはたった一人で悟ることはできない。

 

方便によって、世界の巨大なネットワークの網の目につながった他者を救うことによってしか、

真の悟りは得られない。

 

 

 

*「正解」ではなく「リズム」が大切

 

 

僕らの人間関係のいちばん基底のところには「遊び」がある。

 

「共に遊び、戯れる」ということがなければ、あらゆる人間的成長は起こりえない。

 

「共に遊び、戯れる」上で忘れてはならないことは、「自分自身が楽しむ」ということ。

 

自分が犠牲になって、つまらない思いをいてもいいから、

他人に幸せになってもらうという自己犠牲の精神というのは、

方便からもっとも遠いもの。

 

また、意識的に「方便を使おう」と考えることも、本質から遠ざかってしまう。

 

「方便を使おう」と考えた瞬間、

僕らは「相手をコントロールしたい」という支配欲に囚われる。

 

自分自身が明るく、爽やかな気持ちになると、自然と相手と遊び、戯れたくなる。

 

その時間を共に明るく、楽しんでいると、自然と仏教の教えも相手と共有されていく。

 

そういう、双方向的な交流の中にこそ、本当の意味での「方便」がある。

 

  

 

                        🍀「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」より