昨日、「ありのままで生きる」を紹介しました。

その中で、どういうことなのか、悶々と考えたことがあります。

それは、キリスト教活人術の「10の教え」の③についてです。


③ 自分の気持ちの中に何も留め置かない・・・天国に行く秘訣。

善行を積んで、立派な人生を歩んできた人が、死ぬ時、「こんなにがんばったんだ」という思いを持っていると、天国に行けない気がする。

すばらしかった人生をもっと見てみたいという思いから、この世に留まるのでは。

反対に、極悪非道の人生を歩んできた人が、死ぬ間際に悔い改めてもダメ。

ではどうすればよいか。

死ぬときに、何も心に留め置くことなく、ただ無心で 「ただいま」と言う。


私なりに解釈すると、天国=解脱 ということなのでしょうか。

輪廻転生しているうちは、だめだということですね。

善行を積んでも、本当の意味での天国に行けないのか?

そして、悪人と呼ばれる人はどうなのか?


ふと、五木氏の「親鸞」を思い出しました。


私が親鸞聖人に関心を持ち始めたのは、学生の頃です。

歴史の時間に、悪人正機説というのがあるのを知りました。

その時の私の解釈は、

良い人が極楽浄土に行けるのはあたりまえで、悪い人でも行ける

ということなのかと思っていました。

悪いことをしても、極楽浄土に行けるのなら、我欲を抑えて生きている人と、結果は同じということなのか。

偉いお坊様が、そんなこと仰るわけないとは思っていました。


五木氏の「親鸞」で、衝撃を受けたのはラストのシーンです。

架空の人物で、極悪非道の登場人物がいるんです。

親鸞の往生間際に、「俺のような極悪非道の限りを尽くした者でも、おまえは、極楽浄土にいけると言い張るのか」

と、親鸞に詰め寄ります。

それは、あたかもまぼろしのように。

そして、親鸞が「あれは、自分自身だったのかもしれない」と思うのです。


小説ですが、親鸞聖人の苦悩が感じられます。




死ぬときに、何も心に留め置くことなく、ただ無心で 「ただいま」と言う。


とても難しいです。


私は、先日の「フランダースの犬」のネロを思い出しました。

ネロは苦しい環境に置かれても、生きようとします。

犬が、心の支えでした。

あの犬は、天使だったのかもしれません。

そして、ネロは、眠るように死んでいきます。

何の執着も未練もなかったでしょう。

天国へ行ったと思います。


もしかしたら、「フランダースの犬」のネロこそ、天国の道に通じる生き方、なのかもしれません。


私は、「フランダースの犬」も「アルプスの少女ハイジ」も、子供の頃、読みました。

「アルプスの少女ハイジ」は何度も読みましたが、「フランダースの犬」は二度と読みませんでしたし、アニメも見たいと思いませんでした。

やはり、子供向けのお話は、夢があってほしいです。



キリスト教活人術の「10 の教え」に戻りますが、実践するのはとても難しいです。

私は、 ④の 朝、目が覚めたら手を合わせる以外はすぐにできそうにもありません。

①の損なクジを引く にしても、どうしたら得をするか、という生き方のほうがしみついています。

それも意識してするのではなく、自然にできるようにならなければいけないんですよね。

そういうことが、⑩のあるがまま 

につながっていくのではないかと、私は解釈しました。