「うぃーす!こないだは楽しかったな。また近々遊ぼうぜ」
図書室のドアを開くと、ユリちゃんたちと大富豪に興じるキシモン先輩の姿があった。席の隣に置かれた紙袋にさり気なく目をやれば教科書の束。どうやらこの人は全教科の教科書やノートを学校に置いておくタイプの人間らしい。忘れ物は回避出来ても、終業式には全て持ち帰らされる、さっきの板橋のデジャヴだ。
「お前も入るか?途中参加は大貧民からスタートだぜ」
「…どうして先輩がここに?」
「映画に誘われてさ、コイツが行かないからチケット余ってんだろ?」
「さすがに男が佐藤っちだけってのは困るっしょ?」
隣からニタニタ笑う瀬川くんの言葉に先に反応したのは桑原の方だった。
「そういえば2人って近所だったわね。良かったじゃない、1人にならずに済んで」
ユリちゃんと田村先輩に目をやれば申し訳なさそうな苦笑が覗き、僕は「やれやれ」と溜息を付いた。いくら余ってるからって何でよりによってこの人なんだよ。っていうか、そもそも瀬川くんが来りゃ丸く収まっただろうに…まあ、桑原との冷戦を思えば余計こじれる危険性も有り得るか…
「けど、心配ね。あんた、映画館で寝ちゃうんじゃない?」
「んなわけねーだろ。フラダンは昔っから大好きでさ、誘われなくても1人で行くつもりだった」
「逆においおい泣かれてもそれはそれで困るわね」
フランダースの犬の「フラダン」と略す、その正否はともかく、キシモン先輩の嬉々とした表情に、僕は「やっぱり」と頷いた。公平宅での晩飯のとき、彼はやたらとクリリンのことを口にしていたのだ。僕とクリリンの間には何ら特別な感情は無い。噂の真偽をしつこく問われ、半ばキレ気味に断言すると、ようやく安堵を浮かべたあのだらしない表情。明らかな恋愛感情だ。夫婦漫才のように息の合った会話を耳にする限り、クリリンもまんざらでもない様子。僕らが割り込む余地はない。結局、目当てはフランダースの犬じゃなく、クリリン。ユリちゃんたちの苦笑はこれを差したのだろう。まあ、賑やかにはなりそうだが、僕の貪欲さは苛立ちを募らせる。
(いっくんだったらよかったのに…)
こんな暑苦しくむさ苦しい男より、大沢たかおみたいに清涼感のあるいっくん。
蝉にも勝るけたたましい声の男より、川のせせらぎみたいに情緒ある音の持ち主、いっくん。
当日、風邪でもひいてくれないだろうか?祈り…いや、呪いをキシモン先輩の背後に注ぎ、僕は大富豪に参加した。もちろん、現実にそのような奇跡が起こる筈も無いが、「信じる者は救われる」、そんな名言の信憑性を検証するには打って付けだと僕は本気で信じようと決めた。待ち合わせの最寄り駅にいっくんが現れることを…
「うぃーす!いい天気だなぁ。絶好の映画日和だぜ」
…救われなかったじゃないか。
集合時間を5分ほど過ぎ、現れたアロハシャツ姿のキシモン先輩に僕はぶつけようのない怒りを覚えた。殺意と言っても過言ではない。遅刻したくせに呑気に風船ガムなんか噛みやがって、まず、謝罪が先だっての。
とはいえ、あの呪いに関してはあまりに傲慢過ぎたとも思う。ユリちゃんの存在がありながら、いっくんを求めるとか失礼な話だ。
それに、いっくんと遭遇しない方がいいのかもしれない。この移ろいやすい浮気性な心がユリちゃんだけを向くためには最善の方法だと思う。いっくんと会ってから色々考えを巡らせてみたが、今、答えが出た。やはり、ユリちゃんへの想いを育てるのが賢明だ。男への興味は興味と言えば聞こえはいいが、その対象は下半身。エロコンビがヤングマガジンのグラビアに鼻の下を伸ばすのと同じ。ヒロに関して言えば取り巻く環境も含めてまさに偶像である。どれだけ手を伸ばしても決して届きはしない。
地下鉄の改札を抜け、地上に出ると、そこに広がるのは未知の世界だった。隣接するデパートにブランドショップの直営店、ホテルや高層ビルの数々に空がやけに狭く映る。そして何より、少し気を抜けば皆とはぐれてしまいそうな人々の群れ。桑原は「排気ガスの充満ね」などと渋滞中の車道にクールに言い放つが、僕からすりゃ、排気ガスの匂いさえ、都会の眩さのシンボルに思えた。僕らの街じゃ、有り得ない光景だ。
「佐藤っち、大丈夫?人混みに酔うこともあるからしんどくなったら言ってね」
ユリちゃんの気遣いに、軽く笑むと、まずは腹ごしらえに向かった。灼熱の太陽にむせ返る群集、取り巻く環境は半端ない汗と疲弊を引き出すけど、自転車で坂を下るように胸が弾むのは、光を纏う心地のせいだろう。そりゃ、スーパーの安売りに固めた服装じゃ、群集も違和感を抱くとは思う。けど、光を纏う錯覚、斜め前を歩くユリちゃんが垣間見せる透き通ったようなうなじ、高揚するなって方が無理だ。
外に溢れ返るマックに並ぶ行列も、ミリタリーショップの前で繰り広げられる痴話げんかも、高揚への潤滑油だ。ネガティブさを振り払った僕の光は今日という日への期待だけを向いていた。僕自身も驚くほど意外に。
(続く)
