「俺さ、結婚するんだよ」
何かを気取っているのか、眉間にシワを寄せ、独り言のように秋人が呟く。そのあまりに意表をついた台詞に、僕は思わず吹き出してしまった。その弾みでグラスのアイスコーヒーが跳ね、Tシャツの胸元に落ちた。薄っぺらなおしぼりで叩くように拭きながら、白なんか着てこなきゃよかった。と、後悔する。
「大事な話がある」
残業明けのせっかくの休みだというのに、妙な匂わせを混ぜて、誘ってくるもんだから、タンスの一番上のやつを適当に取ったのだ。まんまと食らいついた僕も悪いかもしれないけど……でも、大事とか言われたら、気になるのはしょうがない。内容を推察しながらベッドに転がる行かなかった場合の自分が目に浮かぶ。
「俺さ、結婚するんだよ」
コーヒーのシミに気を止めることもなく、秋人は仕切り直しとばかりに、同じ台詞を放った。誰のせいでシミがついたのか、そんなことには気が回らないみたいだ。
「具体的な日にちはまだだけど、近いうちにする予定」
秋人は冗談なんか言うタイプじゃない。いつも憂鬱そうな顔をして、喜怒楽をどこかに忘れてきたような奴だ。言葉も態度もそのほとんどがネガティブな辛気臭い奴。まあ、そんな評価を下してる僕も同じ。こんな台詞を聞いても、たいしたリアクションも取れないつまらない人間だ。
「ごめん、ちょっと何言ってるかわかんない」
「なんで?」
冗談と解釈する僕の反応に対して、秋人は、目を薄くし唇を歪ませるという険しい顔のマニュアルのような表情を見せた。かれこれ長い付き合いだが、沸騰したヤカンみたいな温度に触れたのは初めてだった。そもそも、プライベートに触れたことさえほとんど無いのだ。
身長。
体重。
年齢。
職業。
趣味。
初対面のとき、こんな履歴書みたいなプロフィールに軽く触れただけ。深掘りすることもなく、へぇ~、とか、ふーん、とか、興味のある素振りも見せずに、淡々と流しただけ。だから、結婚するとかわけのわからないことを言われても、ピンとこないのも当然だ。
「結婚だよ。け・つ・こ・ん」
バカにされているようで、怒りが沸いてきた。その言葉だけで理解出来るほど、お前のことを知ってるわけじゃない!
「結婚は知ってる」
「だろ?それをするんだ、近いうちに」
「そこだけ言われてもわかんないっての!誰と!?どういう理由で!?」
周囲の目が僕らに注がれる。
(騒がしくて気分が台無しだ)
(そういうのは他所でやれ)
とでも言いたげな非難の目。特にカップルから注がれる視線は、男同士でこんなシャレたところに来るのは場違いだ。という非難もプラスされている。
はあ。
崩れたハートみたいな柄になったシミを見ながらため息をつく。
だから、男同士でカフェなんか来るの嫌なんだ。クーポンの有効期限がどうのなんて言って無理やり連れてきて。50円じゃ、ここまで来る労力にとても釣り合うとは思えない。家でコンビニコーヒーでも飲んでたほうが安上がりだったし、非難を浴びることも、シャツにシミをつけることもなかった。
もう帰ってしまってもいいのかもしれない。秋人に構わなきゃいけない理由もないし。
「俺のとこ、代々鰻屋やってるのは知ってんだろ?」
周囲の非難などどこ吹く風とばかりに、秋人は落ち着いた顔で経緯を語り始めた。トイレに立ちたかったが、彼が切り出した境遇が気になって、そっちを優先した。ここまで嫌な思いをしたのだ。少しでも何かを得て回収しなきゃ。
「ああ、前に聞いたような」
まるで覚えてないのだが、それを言ったら再沸騰しそうなので適当に相槌を打った。
「兄貴が跡を継ぐはずだったんだけどさ、なんか借金だけ残して蒸発しちゃってさ」
「蒸発?どっか行ったってこと?」
「奥さんと一緒に消えた。捜索願は出したけど、事件に巻き込まれたとかじゃない限り、あんま捜査してくれないっぽい」
「借金は?」
「両親の老後の貯金を崩してなんとかなった。借金より店の方が問題なんだ。店を続けることが親父の望みなんだけど、体にガタきてるし、他に兄弟もいないし」
なるほどね。
空になったアイスコーヒーの氷をストローで突きながら、結婚の理由を察する。
ザクっ、ザクっ、と、微かに響く音が、モヤモヤしだした気持ちのオブラートになる。
1ミリも納得が出来ない。
そんなモヤモヤへの。
「今の生活は好きだけど、店を守りたい」
「まあ、わからなくはないけど、それ秋人の考え?」
「うーん」
腕を抱えて、天井を仰ぎながら、秋人は考えについて考えた。Tシャツからすっかりふくよかになった腹が顔を出す。最初に出会ったときは、僕の方がふくよかだったが、貫禄のあるメタボ腹には負けを認めざるを得ない。ザクっ、ザクっ、の間隔が速くなる。
「まあ……そうかな……多分……おそらく……」
「Maybe」とか付け加えたら張っ倒しているところだ。
「頼りない。言い切ってくれなきゃ」
秋人は情けない顔で首を振る。
「嘘はつけない性分」
何のために僕を呼び出したのか甚だ疑問だった。
背中を押してほしい。
話だけを聞いてほしい。
客観的な意見が知りたい。
考え得る目的の全部が、僕じゃなくてよくない?という根本的な問題に直面する。
誰でもよかった。
これが理由ならあまりにも自分がかわいそうな存在だ……僅かな水を啜って気を取り直す。秋人の言葉を反芻し、真面目に考えてみる。
家業を継ぐのは立派なことだが、秋人の前に立ちはだかる壁はその程度では乗り越えられないのもまた事実だ。というか、ほぼほぼ不可能だ。わかりきってる。僕は呆れた顔でナプキンを取った。テーブルの端にもコーヒーが飛んでいる。
「もう決めたことだから」
秋人の口振りは、子供が親に夢を語るときのそれと似ていた。オーディション受けてアイドルになるとか、ユーチューバーになるとか、インフルエンサーと結婚するとか(最後のはまだ希望があるけど)
だったら、僕の次の言葉はこれだ。
「やめときなよ。僕らには無理だ」
「そんなことあるもんか。結婚してるゲイなんて世の中には数多くいる」
「数多く?僕はそんな人に会ったことないけど」
1人か2人はあるかもしれない。そう思ったけど後に引けなかった。
「マッチングアプリとか既婚者けっこういんじゃん?」
「それはバイセクシャルだろ」
既婚者だけどそれでもよければセフレ募集。なんて書き込みは珍しくない。
「家業継いでるゲイなんてさ、きっとそこら中にいるって、公言してないだけでさ」
「死ぬまでずっと偽り続けるの?好きでもない人と結婚して子供作って?偽りの家族と店やってくの?」
「あーもううっせえな」
秋人はしかめっ面で首を振った。虫でも追い払うみたいに。
「マイナスなことばっか言うな」
「現実的なんだよ。そっちこそプラスなことばっか言うな」
周りの視線に構わず、僕らはヒートアップする。不毛な争いだとしても、引き下がれなかった。秋人の考えはあまりに甘い。この調子でいけば、既婚者だけどそれでもよければセフレ募集ルートだ。
「何?俺がここを離れるのが寂しいの?」
「そんなんじゃない」
「まあ会えなくなるわけじゃないし。頻度は減るかもしれないけど」
「だから違うって」
無性に腹が立った。
マウントを取られているような、そんな気がしたからだ。
家業を継ぎ、結婚して後継者を作って、次世代へ繋ぐ。それが社会的にも意味のある行為で、自分の生きる理由なのだと。
特に意味もなく時間を消費して、生産性のないセックスに耽るお前とは違うのだと。僕の捉え方が穿っているだけかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。それでも、僕を不快にさせた秋人への苛立ちは止められなかった。
「無理……かなぁ」
「しらない」
こんな中途半端な状態で帰ることも出来ずに、僕は口を歪めながら、隣の席に目をやった。若いカップルが、互いに気に掛けることもなく、スマホに熱中している。決して幸せそうとは言い難い横顔。それでも、少し羨ましく思えるのは、生産性のないセックスに耽る僕よりは、まだ未来が明るいからか。
「俺、甘いのかなぁ?」
「結婚だけじゃないよ。お店やってくのだって簡単な話じゃない」
「うーん……そうかなぁ……」
わざとらしく腕を組み、僕が頼んだほったらかしのチーズケーキに、目線を落とす。
「食べれば?」
「今食べようと思ってたとこ」
チーズケーキの先っぽをフォークで差す。ポロポロ落ちた生地を掻き集めると、妙な虚しさが湧いた。他人の何気ない報告が、刃と化すなんて、この能天気にはわかるまい。レモンの香りが口内に広がる。
「そうするって決めたんなら、別に止めない」
少しシャクだが、秋人の求める台詞を放ってやる。ここでこれ以上ゴネるのも、なかなかに惨めだと思うし。
「おめでとう。お幸せに」
素っ気ない祝福に、秋人は苦々しい顔で首を振る。
「思ってないくせに」
「なんて言えばいいのさ?」
チーズケーキを咀嚼する速度が上がる。スマホに目を向けたまま、隣のカップルが席を立つ。相手も周りも一切気にしないスタイル。これはこれで幸せなのだと思う。過敏に磨きの掛かった僕とは違って。
「決意が揺らぐかもしれないから、誰かに聞いてほしかったんだ。後に引けないようにさ……ありがとう」
その言葉は、今まで端折った分を精算するような後戯に思えた。いつも曖昧な終わりをし続けてきた僕にとって、それは反応に困る行為だ。
「別に。暇だったし」
「もし会いたいときはラインくれたら……」
「妻帯者とはしない主義だから」
「そっか……」
揺らぐと思うなら決意なんかしなきゃいいのに。
会いたいと思うなら結婚なんかしなきゃいいのに。
そんな度を超えた図々しさを前に、怒りより哀れみが勝った。この程度の中途半端な男のマウントなんかどうだっていい。適当にあしらって流しゃいいんだ。今までずっとそうしてきたように。
「そろそろ行くわ。引っ越しの準備とか色々あるし」
顔を上げるとそこには、見知った表情の秋人がいた。憂鬱そうな喜怒楽をどこかに忘れてきたようなそんな顔。
「元気で」
「そっちも。ごめんな」
ずるずると椅子を引いて、秋人が席を立つ。ピンと真っすぐ張った背中が向けられる。ただのセフレに対して、感傷を抱けるはずもなく、意外と背高いんだな、とか、姿勢いいんだな、とか、別れの瞬間に似つかわしくないことを思った。
空になったグラスの底をストローで突きながら、秋人が残したショートケーキの苺を眺めた。
ああ、そうか、わざわざここに連れてきた理由がわかった。
家だと危険だからだ。
話なんてそこそこに、ずるずるとセックスに流されたかもしれない。きっぱり拒めるほど、僕らは強くもなければ、互いを大事にしているわけでもない。なににも干渉しないでひと時の快楽を優先する。そういう関係だったのだから。
俺さ、結婚するんだよ。か……
一生縁のない言葉だ。
同窓会の案内が来ていたのを思い出した。参加しない。と、返事するのも煩わしくて、どこかの引き出しに放ってしまったけど、それが正解だったようだ。特に思い入れのない人間の結婚だの離婚だの転職だのを聞かされるなんて、それこそ煩わしい。
スマホを取り出し、秋人の連絡先を消した。
そして、惨めで不様な状況、うんざりするほど長い日曜日の空白を埋めるように、マッチングアプリを開いて、検索を始めた。履歴書みたいなプロフィールをいくつもスクロールして、どこどこのカフェにいると呟いて、メッセージのやり取りを交わし……僕はスマホから目を離せなくなる。
彼の席に着く誰かが見つかるまで。
置き去りにされた苺が、行き場を知るのは、まだまだ先のことだった。
(終)

にほんブログ村