こちらのイベントの、報告レポート未満の内容を書きます。
(※わたしの解釈を含めた上で書いています)
娘を同伴させたところ、彼女は9割がた号泣していました。
おふたりには、さんざん娘の気を紛らわせてもらったり、あやしてもらってばかりでいました。
サキさんから「娘ちゃんって何が好きなの?」と聞かれて、滑らかに「わたし、かなぁ」と答えられるぐらい、そのことには確信を持てています。
やっぱり娘は『ママ好き!好き!大好き』と、激情と呼べるぐらいの愛を、全力でわたしへ注いでくれているみたいです。
その愛をちゃんと余す所なく受け取っている、と思っていたのですけど、娘からしてみれば物足りなく感じているそうで。
なぜなら、口には出さずとも、わたしは日々胸の内で(あ〜今日もあの用事が出来なかったなぁ、なんで要領が悪いのかなぁ。どうしてわたしは····)みたく、自分を厳し目に裁きがちだからです。
自責は減ったものの、自分を積極的に褒めるような時間だなんて、毎日1秒だって持てていません。その心の態度が娘には あけすけで、やるせないのだとの指摘を受けました。
『どうしてわたしが こんなに愛を伝えているのに、ママは自身へ優しくあれないの?わたしの愛が届いてない?足りてない?そんなに自分を細かくジャッジしないで、自分を愛し続けることに集中して』
そう、訴えてくれているように思えます。
娘が誕生してから、ずっと日常的に「景ちゃん 好きよ」って、言葉にして想いを差し出していました。
でも、よくよく考えてみれば、順序がアベコベだったのかもしれません。
「わたしは自分のことを、どこか肯定的には捉えていないけど、娘のあなたのことは大切だし好きだよ」って····。ウソは無いけど、説得力に欠けている気がします。不安定な土台の上に積まれた、繊細な愛情みたい。否定は出来ないけど、頼りないものに違いないはず。
体裁はともかく「ナルシストなわたし、娘のことも大好き!」のほうが、娘は安心してわたしと過ごせる気がする。
母親の欠乏感に気を配らずに済んで、どこまでも自分が見たい景色に向かって、駆けてゆけそうな。健全な両思いまみれの空間で、娘を育てるほうが良いに決まってる。
赤裸々に書いてしまえば、わたしは娘を迎えたことで、母親というアイデンティティを意識して、強く握っている所がありました。
“娘を大切に思う母親” として世間に振る舞うことで、内側の不足感が、やや解消されるような幻を見ていたのかと。
でも、そういう埋め方をしてはならないはずです。誰も咎めることが出来そうにないからこそ、ちゃんと自分で止めなきゃならない。母親歴がまだ浅い内に気が付けて、良かったはず。
娘がわたしを選んで生まれてきたかどうかは、未だ分かりません。でも、偶然でしかなくても構わないのです。
『思いがけず来たけど、この家の居心地は なかなか良いぞ』と、今も、振り返った時にもそんな感想を抱いてくれていたなら、もう充分なのです。
人生って、自分をまるっと愛するまでの旅なんだなって、どなたかが言っていました。みんな、愛を分別せずに生まれてきて、いったん忘れて、また大人になって思い出していく作業を辿るのだって。
だから娘をはじめとして、出会う人はみんな、自分にとっては愛に仕えた使者なんだろうな。
それに報いるためにも、ちゃんと自分を愛する道を辿らなきゃな、辿りたいなと感じた1日となってくれました。
うと ありさ