おとついの晩、ふいに、かつて自分が書いていたブログ記事のことが心へ浮かびました。
このブログは一昨年の年末から開始したのですけど、それよりも前に、開設していたアメブロがあったんです。
取っ掛かかりは、タロット教室の先生から勧められたことでした。あの頃わたしも含めて、先生の周囲の人達はみんな、ブログを熱心に更新していたなぁと記憶しています。
タロット占いをメインテーマに書くかと始めたものの、好き勝手に日常を綴りたい想いと、占いをリンクさせることが、どうも上手くは行かず。方向性が定まらないまま、更新もいい加減に、だらだらと続けているような惨状でした。
そうして数年が経った、ある時。
わたしにリセット症候群の気があったことに加えて、当時は断捨離へ全面的に信頼を寄せていましたから「新しいものを呼び込むために、このブログは潔く消してしまおう!」と、ためらいもなく、そのブログを抹消したんです。
消し去った記事の内容は、とんちんかんタロット解説から始まり、実家へ帰省時のお土産のエピソード、職場でほかほかカイロを落として名乗り出れなかったこと、などなど。
でも、それらはこうして思い出せるだけ、まだ印象深いものなはずに思われます。キッカケが無い限り、もう海馬から立ち昇ってこない内容の記事もあるでしょうから。
当時の記事、書くにあたって今以上に時間を費やしていた上に、長くて要点を掴めていなかったり、話の落し所さえ見当たらないものも、たくさんあったはずです。自分を良く見せてくれるものでも無かったし、消し去っても、全く惜しくはありませんでした。
それなのにおとついの晩、無性に切実に、それらに触れたくて たまらなくなったんです。
書いた内容は薄っすら思い出せても、その時のエネルギーには触れられないし、少し離れた場所から眺めているに過ぎません。
記憶を辿って一字一句、誤りなく書き直せたとしても、それはもう別物なわけです。
過去の自分の言葉って、その当時へと旅立てる、身近なタイムトラベルの媒介の1つじゃないですか。まれに、その旅の中で「これ、本当にわたしが書いたの?」と、自分以外の存在の手助けを借りて書いたと思われるもの、いわゆる未知との遭遇を、味わえることもあったり。そんな貴重に違いなかったものを、自分で、宇宙へ放り投げてしまったみたいです。
それらを消してまで取り込んだ “新しいもの” って、何だったっけ?
あったかもしれないけど、まったく思い出せないんです。タイムトラベルの道具に比べたら、きっと些末なものだったんじゃないかな。
ブログそのものを消すにしても、文面をコピーペーストするなりして、人目のつかない場所で、自分のためだけに保管しておけば良かったのにね。確かにスペースは有限かもしれないけど、それぐらいの器の広さ、わたしの中にもあったはずなのに。
特にいま、結婚したばかりの自分に、会いに行けたらなぁと思えてならないんです。
まだ反射の観念なんて露ほども無くって、家の外ではオドオド、疲れやすくて休憩してばかりだった自分は、見るに耐えないかもしれないけど。
新しい暮らしにドギマギしながらも、純粋に将来は良くなる一方と信じて疑わず、心に映ったものを、そのままの鮮度で文章へ移そうとしていた、可愛らしいわたしのエネルギーに、思いきり身体を預けてみたかったなぁ。
せめて、その過去への望郷の想いを、この記事に編み込んでおこうかと思います。
未来のわたしが今日この日へ、また降り立つ時のためにね。
うと ありさ 🛸🛸🛸