特別支援学校のスクールバスに児童を50分間置き去り 運転手が車内確認怠る 安全装置のボタンを手元に置く不適切運用 大分
このニュースを見て思い出した。
幼稚園の頃の話。(~1992年くらい)
幼稚園に登園する際、園の送迎バスの世話になっていた。
帰宅時に下車するときのルールはどうなってたんだろう。
自分から降りていく流れだったのかな。
ちょっと覚えてない。
ある日、寝ていたからなのかは覚えていないが、バスを下車できなかった日があった。
たぶん、目覚めたときに外が見たことのない景色でびっくりしたのだと思う。
私は極めておとなしい人間だったので、自分からは言い出せず、ドキドキしながら座っていた。
頭の中が「怒られるかもしれない」という気持ちでいっぱいだったはずだ。
そのあとどうなったんだろう。
おそらく、園まで戻った後に発見されたのだと思う。
・・・
そういう経験があるから、バスに取り残される園児の気持ちがよくわかる。
わかるし、閉じ込められて息絶えた子どもの気持ちを考えると胸がキュッとなる。
例えば、以下の記事。
牧之原幼稚園バス3歳女児死亡事件
こんな無機質な記事でさえ、文章を読むだけで涙が出てくる。
この事件なんかも、当時、ニュースを見ていて耐えられなくてテレビを消したことを覚えている。
西淀川区女児虐待死事件
私の実家もバイオレンスな感じだった。
長男である兄が夜に玄関の外に締め出されたことがあった。
しかし、バイオレンスな家であるため兄も頭がぶっ飛んでいる。
兄は素手で玄関のガラスを割り、流血しながら家に入った。
あの家はあの家の住人たちを狂わせていた。
その元凶となった人間(だと私が思っている)である祖父はすでにこの世にいないが、
その悪しき空気の片鱗が実家に残っている。
だから私はあの家には居たくない。
帰省するのも躊躇している。
とはいえ、いちおう1年に1回は帰省している。
4年前のGWに帰省した際の話。
たぶん9連休とかだったんだと思う。
まず東京から広島へ行き、1泊して観光した。
その年はロシアのウクライナ侵略が始まった年で、なんか心がざわざわしていた。
戦争ってなんだっけ?という気持ちから、広島の平和記念資料館へ行きたくなった。
※いわゆる原爆資料館と呼ばれる施設ね
広島城に立ち寄った後、平和記念資料館に向かった。
平和記念資料館へ行くのは3度目。
戦争の悲惨さを再認識するという儀式は定期的に必要。
Twitterとかでアカウント名にウクライナ国旗をつけて暴言を吐いているヤツらって何なんだろう。
とか思いながら戦争に思いをはせる。
ニュースだけ見ててもわかんないけど、一般市民たちが絶望的な苦痛を味わっているわけです。
平和な日本に住む我々には、その気持ちを本当の意味で理解することは出来ないのです。
我々はある程度、命の保証がされているのですからね。
・・・
※当日、閉館直後で半分しか観れなかったため、1年後のGWに改めて広島へ足を運んだ。
新型コロナ恐怖症だった私は、市電に乗らずにすべての移動を徒歩で済ませた。(すごい)
翌日、美味しいと噂のむさしのおにぎりを食べてみたかったため、むさしの「若鶏弁当」を購入し、熊本へ向かった。
※これまで食べたものの中で美味しかったものランキングベスト10に入るくらい美味しかった。
熊本にいつまで滞在するのかを決めていなかった。
予定ではだらっと長居しようかと考えていた。
が、いざ実家にいるとなんか居心地が悪いのだ。
なぜかすぐにここから離れたいという衝動に苛まれた。
あの感覚は言葉では表現できない。
過去の経験や記憶がそうさせているのかもしれない。
その結果、2日間だけ滞在することにした。
で、これまで行ったことのない大阪に向かった。
頭がパンパンの鬱々しい気持ちだったことを覚えている。
新世界、通天閣、そこから歩いて難波へ行き、NMB48劇場の外観を見て、みたいな初日。
通天閣を上る際、途中で強制的に写真撮影される箇所があった。
「撮らないとダメですか」と確認したが、スタッフが食い下がってきたのでいやいや撮影された。
※アレは大阪のイヤなところが出てると思うのでやめて欲しい。
宿泊して翌日は大阪城だけ行ってすぐに東京へ向かった。
新大阪駅の象印銀白弁当でお弁当を購入して新幹線の中で食べた。
これも美味しかったね。
・・・
って、アレ?
なんの話だっけ?
そうね。
いまでもみんなに見えないところで苦しんでいる子どもがいるはずです。
けど、仕組み的に彼らを救うことは出来ない。
私の大好きな漫画『BLACK LAGOON』に以下のようなセリフが出てくる。
・・・誰かが、
ほんの少し優しければあの子たちは――
学校に通い、友達を作って幸せに暮らしただろう。
でも、そうはならなかった。
ならなかったんだよ、ロック。
だから―――
この話はここでおしまいなんだ。
この言葉は「現時点ではどうしようもない過去」について述べられた言葉。
とても悲しい言葉。
・・・
けど、いま、自分の周りに困っている人がいたら助けられるかもしれない。
・・・
なんて思いながら生きていきたいな。。。
fin.
このニュースを見て思い出した。
幼稚園の頃の話。(~1992年くらい)
幼稚園に登園する際、園の送迎バスの世話になっていた。
帰宅時に下車するときのルールはどうなってたんだろう。
自分から降りていく流れだったのかな。
ちょっと覚えてない。
ある日、寝ていたからなのかは覚えていないが、バスを下車できなかった日があった。
たぶん、目覚めたときに外が見たことのない景色でびっくりしたのだと思う。
私は極めておとなしい人間だったので、自分からは言い出せず、ドキドキしながら座っていた。
頭の中が「怒られるかもしれない」という気持ちでいっぱいだったはずだ。
そのあとどうなったんだろう。
おそらく、園まで戻った後に発見されたのだと思う。
・・・
そういう経験があるから、バスに取り残される園児の気持ちがよくわかる。
わかるし、閉じ込められて息絶えた子どもの気持ちを考えると胸がキュッとなる。
例えば、以下の記事。
牧之原幼稚園バス3歳女児死亡事件
こんな無機質な記事でさえ、文章を読むだけで涙が出てくる。
この事件なんかも、当時、ニュースを見ていて耐えられなくてテレビを消したことを覚えている。
西淀川区女児虐待死事件
私の実家もバイオレンスな感じだった。
長男である兄が夜に玄関の外に締め出されたことがあった。
しかし、バイオレンスな家であるため兄も頭がぶっ飛んでいる。
兄は素手で玄関のガラスを割り、流血しながら家に入った。
あの家はあの家の住人たちを狂わせていた。
その元凶となった人間(だと私が思っている)である祖父はすでにこの世にいないが、
その悪しき空気の片鱗が実家に残っている。
だから私はあの家には居たくない。
帰省するのも躊躇している。
とはいえ、いちおう1年に1回は帰省している。
4年前のGWに帰省した際の話。
たぶん9連休とかだったんだと思う。
まず東京から広島へ行き、1泊して観光した。
その年はロシアのウクライナ侵略が始まった年で、なんか心がざわざわしていた。
戦争ってなんだっけ?という気持ちから、広島の平和記念資料館へ行きたくなった。
※いわゆる原爆資料館と呼ばれる施設ね
広島城に立ち寄った後、平和記念資料館に向かった。
平和記念資料館へ行くのは3度目。
戦争の悲惨さを再認識するという儀式は定期的に必要。
Twitterとかでアカウント名にウクライナ国旗をつけて暴言を吐いているヤツらって何なんだろう。
とか思いながら戦争に思いをはせる。
ニュースだけ見ててもわかんないけど、一般市民たちが絶望的な苦痛を味わっているわけです。
平和な日本に住む我々には、その気持ちを本当の意味で理解することは出来ないのです。
我々はある程度、命の保証がされているのですからね。
・・・
※当日、閉館直後で半分しか観れなかったため、1年後のGWに改めて広島へ足を運んだ。
新型コロナ恐怖症だった私は、市電に乗らずにすべての移動を徒歩で済ませた。(すごい)
翌日、美味しいと噂のむさしのおにぎりを食べてみたかったため、むさしの「若鶏弁当」を購入し、熊本へ向かった。
※これまで食べたものの中で美味しかったものランキングベスト10に入るくらい美味しかった。
熊本にいつまで滞在するのかを決めていなかった。
予定ではだらっと長居しようかと考えていた。
が、いざ実家にいるとなんか居心地が悪いのだ。
なぜかすぐにここから離れたいという衝動に苛まれた。
あの感覚は言葉では表現できない。
過去の経験や記憶がそうさせているのかもしれない。
その結果、2日間だけ滞在することにした。
で、これまで行ったことのない大阪に向かった。
頭がパンパンの鬱々しい気持ちだったことを覚えている。
新世界、通天閣、そこから歩いて難波へ行き、NMB48劇場の外観を見て、みたいな初日。
通天閣を上る際、途中で強制的に写真撮影される箇所があった。
「撮らないとダメですか」と確認したが、スタッフが食い下がってきたのでいやいや撮影された。
※アレは大阪のイヤなところが出てると思うのでやめて欲しい。
宿泊して翌日は大阪城だけ行ってすぐに東京へ向かった。
新大阪駅の象印銀白弁当でお弁当を購入して新幹線の中で食べた。
これも美味しかったね。
・・・
って、アレ?
なんの話だっけ?
そうね。
いまでもみんなに見えないところで苦しんでいる子どもがいるはずです。
けど、仕組み的に彼らを救うことは出来ない。
私の大好きな漫画『BLACK LAGOON』に以下のようなセリフが出てくる。
・・・誰かが、
ほんの少し優しければあの子たちは――
学校に通い、友達を作って幸せに暮らしただろう。
でも、そうはならなかった。
ならなかったんだよ、ロック。
だから―――
この話はここでおしまいなんだ。
この言葉は「現時点ではどうしようもない過去」について述べられた言葉。
とても悲しい言葉。
・・・
けど、いま、自分の周りに困っている人がいたら助けられるかもしれない。
・・・
なんて思いながら生きていきたいな。。。
fin.




