(大きなかぼちゃが手に入ったということです(笑))






最近食品添加物とかに少し緩い私。



ケミカルなものは勿論嫌なんだけど


「どんどん変なものになってきてる!

誰がこんな事やってんだ!」


みたいな一部ではよくある声にあんまり賛同したくない感じみたいです。




ポジティブな気持ちで有機野菜を買うとかではなくて

優越感とか否定をするためにオーガニックみたいなものも

自分的になんか違うかなと思って。


都合の良い社会の実現のために薬が使われるみたいな事に賛同も否定もしないで無理なく程々に楽しんでいたい。



ただ、全ての事象は「自分にも原因があるから起こる」のだと思って利用している。





そんな事を考えていたら、


私は「他人の個人的怒りに賛同させられそうになること」にすごく敏感かも、と思った。


人生相談やカウンセラーは隠れてる他人のエゴに巻き込まれそうになることが多いから当然かもしれないが。





世の中、我慢させられ、なんか変なことに付き合わされて

社会に出された子供がいっぱいいるのはわかる。


で「外への怒りや疑い」が自然に外に出るようになるのは当然の流れなのだが

 

いじめや虐待被害に耐えた記憶を元にして

「誰かが社会を改悪してるぞ」

みたいな言葉を容易に信じる事に繋がっているのでは?

とも感じる。



なんとなく、「隠れた(潜在的な)」誰かや何かの否定が入ってる行動に巻き込まれそうになる、みたいなのに私は反応しているのかもしれないと思う。

基本的に楽しくないし、他人のエゴ肯定の為に利用されている気がして。




自覚・無自覚に関わらず、

ひたすら他人のせいにして、

世界を呪い、外に矢鱈神経質になっていって、


人間不信になり、
孤独になって

ずっと何処かに怒ることで


孤独癒しと自己肯定の

ストレス解消してる行動パターン


多いんじゃないかな?と思っていて。




オーガニック・食品添加物の話だけではなくて


他人のせいにして

個人的な孤独と怒りのストレス解消するトコを常に探す、


そんな人の存在をコロナ後沢山感じるようになった。




人間不信で怒りを溜め込んで吐く先を探してる、


それは「止まらない(依存症の一種)ストレス解消」であり、

依存症はやってる人にとっては
「大切なコミュニケーション」
、なわけです。




それが昨今顕著に問題になってる

ネットの誹謗中傷や、カスハラのベースになっているのかなと思う。



一昔前は丁寧に話し合って、明らかに企業側の手抜きやミスがわかった時はカスタマーサービスが丸く収めるとかしたのだと思うし企業の姿勢ももう少し謙虚だった感。


今は企業側も基本的に客に諦めろ、みたいな方向に持っていくとか、欧米の企業ではよくあるらしい?「容易に謝らない」をやたらにする話はよく聞く。


人不足も影響してか、サービスも低下の一途。


その結果色んな目的の人が集まってきて、

カスハラとかが流行り生まれたのだろうな、と思う。


時代の子供なんだ。


正直カスハラが生まれる隙だらけな社会のような気がする。


今やたくさんの人の間で会話が成立しない事も多い。





私がカスハラ問題に対して一番に思うのは


カスハラカスハラ叫んで、

クレーム処理やサービス向上しようとしないでいる企業が多いのか?・・・とか

嫌がらせが日常になってしまった人が増えたのかなとか


他人を疑い始めて

妬みや恨みを身につけるのヤダ、って事です。


怒りや変な妄想を育ててしまう人が多い事を示していると思う

この現象を本質的に解決する事を望んでいます。






脳科学的な話を言うと


「本質的なストレス解消」が外部で解消することは

基本的に起こらない。


=自分の内側を変えないと、

外がどんなに変わっても

脳はストレスを生み続けるということ。

例えばサービスの際不快なことが起きても、外部を非難し怒りを溜める原因記憶が無ければ
カスハラせず事を穏便に済ませられる。



だから催眠療法を知っているものとしては、

外に何か変化を求めるみたいなことが無くなってくるけど



世界は全然そうではなくて、


相変わらず「外部でなんとかしよう」が多いってことだと思う。



(↑コレ、「外出自粛」などに現れたように、

水瓶座の時代の修正点だと思います。)





多分同じ理由で、最初に書いた食品添加物やケミカル対応も

程々にする、というトコに落ち着いたのかなとも思う。


怒りや否定に生きるってホント疲れるし

なんとなくそれをさせられてるみたいなことは

もっとヤダし疲れることです。


だから、他人と自らの不出来に平等に慈悲を持って対応、

というところだろうか。




「世間の大声を疑わないこと」がコロナのワクチンの時に凄く非難されていたのを覚えているけど


疑うもバランスだなあと思うのは


疑って怒って平和平和!ワクチン反対!って人の中に、

魅力的で楽しい人が少なく、何が平和?と思ったことと、


危険なことが平気で世の中で広く流行ったような怖い世界でも


世の中に恐怖した末に

何でも疑って生きるような人になってしまう事は


「人生の本当の負け」のような気がするんですよね。




私は危険に最低限必要なだけ正確に物事を判断出来ればよくて、

ずっと安全に生きるために警戒するとかはどうでも良い。


楽しく無理なく瞬間を生きる生活する、がまずいちばん大切なことだ。





他人を責める時は、

自分の中のストレスに気づいていない。と言えると思う。



気づいていても手放す方法を知らないから

絡む先や思考を探すしかない、とかになってるんだろうと思う。


こんなエゴを育ててしまうようなことをするって人生の無駄

と私は思ってる。


負け、なのだ。楽しく生きるを目標にするならば。

 



だから、個人的な過去の恨みとか被害的な記憶をケアするのは大事だと思うのです。


如実に基本的な幸せ感や充実感、社会生活に響くから!



いろんな嫌だった過去のことに傷つき続けてるから


また、

他人がなんか目論んで攻撃しようとしてる・・・


という被害妄想になるのですね




そんな思考回路作るような記憶は私はいりません。




この世のたくさんの人が神経質を手放して、
冷静に問題点を話し合いで解决できて、


本質的な改善できるのが個々の成長につながるし、

末は平和な世界に繋がるのだと思う。



会話が成立しないとか、言い争いしか出来ないなんて、


愛を受け取ることも放つこともできないと思います。
(→いわゆる不幸?って奴?)


そこにはエゴ(我欲)の成長があるだけなのだと思う。



トラウマを受けて傷ついているのはわかるけど

カスハラみたいに外部に誰彼構わず癒やせ!ってやり続けても

楽しい人生はどんどん減っていくだけ。


トラウマを与えた人だけでなく、

被害記憶に怯えて保持している自分も問題だと言うことです。



&何でもトラブルが起きたら 

世の中の流れ的に「カスハラじゃないですか?」みたいな処理の仕方をしようとする流れになったら、

お互いに良くないんじゃないかなと思います。


企業側にも、利用側にもWIN WINにはならないと思う。


生まれるのはストレス解消依存症を法律である程度規制しようという弱気な対策なだけ。今行われようとしていることは。




本質的解決の最初の一歩は、なによりも個人の中の争い事をまず鎮めること・・・だと思うのですけどね。



加害者も被害者も作らない社会のために、


まず自分(の問題を手放す)です。



逆にホントにカスハラ被害に遭う人は


「感情のゴミ箱」にされるみたいな

原因記憶をケアするのも大事です。



・・・


自己と世界の平和の実現のために、複雑に絡まった感情の糸をほどいていくって大変な話ですが

少なくとも私は基本に忠実に、自己解放と出来るだけ楽しく、をしていきます。


長くなりました。ではでは。