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私が最後に満足した絵を描いたのは、短大を中退する直前にまで遡る。
製図の課題の最中に、ふらっと花瓶に活けてあったりんどうの花を水彩で描いたのだが
その時、(私の人生は)こっちだなあ(製図とかではなくて)とか思った事がある。さらさらと、自然に、簡単に、いい絵が描けた。
あれ以来、時間もお金も知識も増えても
あのりんどうを描いた時のような感覚になった事が無い。
絵を描くこと自体が難しいことになってしまった。
なに描こう、どう描こう、誰の為に、何を伝えたくて、
その全てが、あのりんどうの花を描くときには無かった。
あの頃は鬱だったし、倒れる寸前だったから
何か楽しいことをしないと狂う、
だからただ絵を描いたのだった。
私は知識や情報が凄く大切なものとされる現代において
自分(だけ)に集中して生きるとか、
情報など大したものではないですよ・・・
というと理解されず受けないのは成程なあと感じながら
水瓶座の時代→情報の時代のハッタリに騙されてるだけではないのか
と思えてならないのは
知識や情報が増えれば増えるほど、
満足のいく絵が描けなくなるようなことが起きているからです。
直感とか無心の行動が変な犯罪にしか感じられないのはとても悲しい。
最悪です。
【純粋性や感情に訴えるような】芸術が私は心の癒しの最高峰だと思ってるんだけど
情報という風は感情の水を乾燥させて乾燥させて、って感じ。
例えば最近は技術的なモノサシで測った上手い歌ばかりで、自分の歌の無い音楽ばかりが流れてくる。
変なアタマを使わないと理解できない理屈で固めた現代アートとかばかりで
ただただ美しい真珠の首飾りの少女や、モディリアーニの人物画みたいな芸術が無い。
知識や情報、意図にまみれたものって感動しないんですよね。
例えば若くておっぱいが大きくて足が長くて顔が小さくて目が大きくて幼ければ女は可愛い、みたいな概念とか。
高級なお肉が最高のもてなしとか。
高級ブランド持ってたら金持ちに見えるとか、常識的な感覚があると思われるとか。
そんな世間の概念=情報に汚染されると、親の暴力も分からなくなるみたいなのに繋がると思うんですよね。
変な宗教に気付けないとか。
親孝行は絶対みたいな情報や人が多いならばそれが正解になるから。
自分の意見や感覚が無い、
それが情報依存ってことだから。
でも感覚や価値というのは、
自分の人生にとって世界の事象の全てを
【自分が快か不快かの判断をすること】が基本で
真珠の首飾りの少女や
モディリアーニの肖像画が美しいのは何故?
って
説明出来ないですよね。
説明出来ないけど、
美しいものを見てるときだけ未来が信じられるとか自殺願望から逃れられる人って沢山いるはず。
だから私は情報なんていらない。
知識も大して重要視しない。
自分が何に対して一番感動するのか、のほうが
ずっと個人が生きていくには大切なことで
結果周りの人も幸せにする、が起こるし
個人がいいと感じるものには人の数だけバリエーションがある、
情報検索でそれが見つかるとは思わない、
ネットのスイッチを切って
自分の内側の感覚を確かめることをしないと見つからないと思うのです。
楽しいとか幸せを増やすには。
美しい絵画を観ているとただただ
そんなふうに思うのです。
人が自分とひたすら向き合う、社会の声を遮る勇気を持つ、
実は人が死ぬほど恐れていることの一つのような気がする。
でも、スゴイことした楽しそうな水瓶座の人は、みんなこういう話するんだよね。
水瓶座の時代の基本姿勢をみるようです。
情報にまみれて、
毎日変な恐怖に脅されるような意識をどんどん手放して、
あの日りんどうを描いたときの自分、必死に生きようとしていた自分の意識に近づきたいと思っている今日この頃です。