(毎年春といえば菜花→菜花丼、です(笑)



菜花をフライパンで弱火でオリーブオイルで煮、
酒と醤油と塩。つゆだくに仕上げてごはんに乗せて♪

それぞれ調味料や油は質がいいものを。
如実に差が出るが、そこそこのものでも美味しくはある。

花を食べると頭すっきりする春。

ダージリンやジャスミンティーみたいな
カフェインですっきりするのとも違う。素晴らしき料理。)










春の過食は肝臓の機能と結びついていて、過覚醒の元になっていて
みたいな話を先月はいくつか書いたと思う。



過食ってホント面白いと思います。

色んなサインをくれる。



お母さんの虐待を受けた→殺されそうな記憶を癒している(→まず食べるに走っている)
というサインでもあるとか

トラウマ所以で死ぬほど頑張ってきた自分や
警戒心の塊な自分がある
のを知らせてくれるというのは

「依存症の神様」って感じすらする。






最近私は色んなサインを受け取っていて、
それは共通して「きちんともっと役に立て!」(笑)なんですが


時々食べ過ぎたな・・・


なんていうとき、最近こんなことを思うようになった。





「食べること」で

楽しみややりがいで得られる喜びの全てを紛らわしている


ってことなのかと。



食べ過ぎているっていうのはやっぱり不健康な状態な訳です。




食べられる状況を幸せに感じながら最後は気持ち悪くなってたりするのがオチ。

快楽ではないことを知りながら、食欲に依存するしかない。


しかも食事は

「食べなきゃ生きていけない」という罪悪感に繋がりにくい理由も持ってる。

だからこそ、いい子を誤魔化しやすいとも言える!けど



こんな人いっぱいいるのではなかろうか。
依存症の全てがこんな感じだと思う。



【本当に快楽的なことにはリスクがあって面倒だから踏み込まないんだろ?

だから手短な快楽=食欲を満たして

生きた&満足した気になってるな?】





こんなメッセージを言われている状態、

セックス依存、アルコール依存、・・・にも当てはまることだと思う。

うん、死ぬほど悪いことではない。

犯罪=酷い略奪に走るよりは依存症は「軽い」。






でも、例えば私などは他の、
・・・日々行うオラクルカードや出会う人が話すことなどで気づくサインなどで


「過去の嫌な事やトラウマを理由にして

自分の能力を発揮して世の中と交流しようとしないで


さぼる理由にしてるだろ?」




みたいなことを今(笑)言われておるのですが


(※コロナ後に受けたいくつかの迷惑行為で仕事に前向きな心で向かえない、が起こっておりました)



人は傷ついた経験後、

何とか傷を回避できる環境を整え、
生活を安定させると、

そのコンフォートゾーンが「身を守れる、最高」ってなって、
一時的に満足します。

でも「一時的」なんですよね。「基本」とか。



ところが、人生は「自分を守るだけ」で済まそうなどというものではない。




身を守れた人には次の段階→


本格的に「そもそも困難が起こる原因」の改善に立ち向かえ!

って促してくる(by神様(笑))なんだと思う。



&コンフォートゾーン、にいるだけっていうのは自己愛を満たしている姿なだけでもあるともいえる。


しかも、それが普通になると、

潜在意識の本音的には、如実に飽きてくる。

更には、飽き飽きしながらも
「誰かがこのままこの生活を続けさせてくれたらそれでいいなあ」なんて思い出して、

「ラク」に依存し続けるために誰かに軽く迷惑かけながらとか、不快を感じながらも続けてしまったりする。


これが依存症、というものではなかろうか。



こんなことの末に、過食やアルコール依存、セックス依存、家族依存などは起こるのではなかろうか。



・・・きっと、子供の頃兄弟とシェアしてちょっとしか食べられなかったお菓子を、


初めて自分で得たお金で大人買いして食べた日は、凄く満足したものだと思う。



食べ過ぎたあ、のあとに笑顔があったと思う。


でもそれを続けていても全く何も思わなくなって、どんどん量が増やす、でも満足しない、逆に気持ちが悪くなってきた



こういうのが過食依存症なんだと思う。




この段に達してしまった人々に


・・・神は

「次の段階に移行せよ!」

って言っている気がする。




春は「始まりの季節」だから、多分余計に神は圧をかけてくるし(笑)、

世の中は

「新しく始めよう、
始めよう」
って


空気で満ちますよね。



だからもしかして春は過食が起こりやすく、圧をかけて

「こんなものが快楽か?」

なんて言われ続けているのかも
、と思います。






先日も、ようやくなんとか「傷ついたヒーラー」(笑)状態から
他人の力になろう、みたいな気になって仕事していた時、


ああ、これだよな、

この状態でしている仕事の時の快楽と、食べ過ぎた、は

全然違う



って思ったんですよね。



うん、毒親に虐待された人が一時的に身を守るのは当然のこと、ですし、

トラウマや虐待に気づかず、迷惑ごとしまくって誤魔化そうとする、

みたいな人と比べたら比べ物にならない、岸が違う、

自分で何とかしようとしているというのは偉いことではないかと思う。



でも、身を守っているのは一時的な場所で

安心するし安定はするし安全だが


ホントに楽しい事を体験し

快楽を得る、というのも

人生の大切なミッション

で、

更には


快楽的なことを体験したら、

多くの人に分け与えられるような人になる





っていうのが


最終的な

「トラウマに最高に対抗すること」


なんだなあという感じです。




魂で仕事をしてる喜びがあればほとんど絶食でも生きてられた、

みたいなお話を聞いたことがありますが



三度の飯より・・・みたいなものの追及が大事なんでしょうね。


私はこの「三度の飯より。。。」みたいなものを、

多分「純粋性(に触れる行動)」

と呼んでいます。







心の中にある純粋性にたどり着く旅を、


過食に陥ったならば始めてみてはいかがでしょうか。


新しい世界へ、何かを探してみましょう。





本当に愛する人の子供を宿した母親がお腹の中で育てて続けるみたいな人生に育ててみよう!





「ほどほどに幸せな人生」にサヨウナラ。




さあ、新しく始めましょう!



リスクを取れ!


純粋性にたどり着く行動を手に入れよう!



・・・・そんな感じです。ではでは!