(いつもこんな食事なら死ぬほど健康なの?
お粥、木綿豆腐のお味噌汁、豆腐マヨのコールスロー。)





最近の新しい歌や芸術一般によく感じることがあります。


変な言い方をすると、・・・
岡村靖幸臭がしない(笑)


・・・きちんと説明しますね(笑)


沢山情報には触れてるけど、実体験が浅く少ない感じがする。

ウケる見本とか型の研究はしてある。でも熱が少ない。

世界の情報を漁って、足元や身近な何かはよく見ていない。



・・・という感じが、歌を聞いてても、映像作品観てても、感じること。


理論的には考えられてるな、間違ってない、ですが感動が少ない。

「催眠に入れない!」のです。




岡村靖幸の歌に「モン−シロ」というのがあるんだけど

好きになった相手にモンシロ(チョウ)が蜜を吸うように直接、触れたいな

という感じのサビがあるんだけど
ああいう情熱が感じられない。

潜在意識の蓋が全然開きません。



感動する作品に出会うと疲れなんて吹っ飛ぶものだったけど、今そういう歌にも映像にも出会わない。つまらない大半の現代アートみたいな。

なんとなく孤独が少し癒えたかなとか、暇が潰せたという程度。





私の知ってる芸術作品は

現実の何かに揺さぶられたとか感動したとか飢えた、

から発生していた感じがする。

実際の物質の重力、があって、何かが生まれてた。


今は違う。


沢山の情報の中から何かを探しているのかな

という感じがします。


よって作品は「今知ってる情報を分析した結果報告」みたいな感じ。

やたらクールで、
「アーティスト個人」が
「何を大事」に、
「何がテーマ」で、
がわからないのです。




この間、中高生向け?のアニメ作品をチラ見した時もそうで。

主人公の私的な内面の葛藤を描いていくのかと見ていたら

周辺の人々のいろんなエピソードがしょっちゅう出てきて、話が脱線する。何を描きたいのかがさっぱり分からなくなってしまった。


それがいわゆる

「大勢に訴えるようなCMにしたいから多世代のタレントを複数出す」とか

「色んなタイプの子を揃えてグループを形成して多支持を得る」

みたいに見えたのだけど

すっかり主題がぼやけてしまった風にしか見えなくて。



色んな人の心の情報は得られる、とか知ったフリにはなれるし、色んなパターンの人の小さな同感を得たかもしれない。

でも、感動はしなかった。

雑誌の端っこの小さなエピソードに頷くような感覚だけだった。

・・・全てがこんな感じ。



強く、人生に対する心を揺さぶられるとか、起こる気配がない。

スローに変な情報に毒されて
時間が過ぎてしまう、
消費してしまう

そんな感じが漂う。




ネットの情報は、愛ではない、のですよね。よく似てるけど、違う。

最近の人は、危険からは守られるみたいな体で、何にもさせてもらえてない、無駄な行動スケジュールでいっぱいにされてる、・・ってよく感じる。

舗装した道だらけの景色を観ているようだ。


&ネットの危険情報などでガチガチに囲われている感じ。






情報に沢山触れてたら、安全になんとなく時間は潰せる、けれど

岡村靖幸みたいな快楽を得たいとか、悔しい思いや欲望を抱いて音楽を作るとかは無かろうなあ、と感じると悲しい。



今の時代「強い気持ち」は我慢とかに使ってしまうのだろう。

悔しくもない、ただただ疲れて、心がカラカラになるだけの。


水瓶座の時代が来る前に、こんな感じの世の中になるぐらいの話は聞いていた。直のコミュニケーションは薄くなる、と。


でも反面で迷惑行為や凶悪犯罪は増えている一方だと思う。






でも、時代がこうだから仕方がない、では無く

いつも大切なのは
「自分がどうしたいか」
、です。



情報が溢れて、身近なものが見えない、みたいな時代の空気があって

情報に踊らされて支配されて我慢させられてるがあって


今一番厄介や困難になっているのは

↑にも書いたような「厄介な依存症」の人々が、コミュニケーションや実体験を得られる場を閉じることだと思う。




きちんと大事なことは五感で確かめなくてはならないことっていうのもあるわけで。それが犯罪という形で多くなるのは悲しい。


モノの貧しさより心の財産とかが足りてない。そんな時代。





いつの世も自分が楽しいは尊い。

【楽しみの質向上の欲】はどんどん追及してほしい。

ちょっと暇つぶしのスリルとか、低いレベルの欲に留まるから犯罪になっていくんですよ。

変なことに走るまで我慢する人生なんてそもそも生ですらないかもしれないです。

「本質的に生きましょう」です!

・・・・ではでは。