(インドカレー好きが高じて(笑)時々レッスンに通っています。

「近所のインドカレー屋さんの実際の手仕事」はやはり奥深く、
「僅かな味の差の出し方」を少し、学べています。) 






ここ数年スピ系、自然療法系のイベントに行くことが多い私は、
そうでないイベントに行くと、すごく学ばされる事が多い。

「一般的なひと」
に触れる、というのは、

心理カウンセラー・セラピストにとって、最も学べる場所かもしれない。
難しい講座にいくよりも、よほど学べる。





その場所、インドカレー教室には、2度め、だった。

いつもメニューを見て行く。
例えばマトンとかは学んでも食べられないと思うので!行かない。

今回は、魚介カレーと、イワシのスパイス揚げ、レモンライス、レッドオニオンピックル。連続参加契約じゃないのが良い。



料理も好きだし、新しい経験もできるし、出来たてをいただけるし、
「一聞は一見にしかず」はやはり強いので、行く価値がある。


しかし、この場所に来ている目的は、ひとそれぞれで、
調理に注目しながらも、他人の目的を感じるのは勉強になる。





こういう場所に来るといつも思い出す。

上條淳士の「SEX」という名作のなかに、
ユキ、という女性が、沖縄の鍾乳洞で、場所の見どころを、
見知らぬカップルに説明する、という場面がある。


カップルは、鍾乳洞を観たいんじゃなくて、多分、暗闇に行きたいだけ、なのだが、

ユキ、は、戸籍のない人として生きているテロのスペシャリスト、みたいな女なので、
そういうことが全くわからない。


鍾乳洞を観たくて鍾乳洞へ行き、
植物が好きで植物園に行く、

という徹底した美意識がある女。


だから彼女は、カップルに疎まれて、こんな事を言う。


「なんだ・・・鍾乳洞好きじゃないのか・・・」








社会に出ると、こういう場面に出くわすことは本当に多い。


こんな仕事したくないんですけど、とか

本当はこれ嫌いなんですけど、とか

しかたなくやっています、とか


そんなことにはいっぱい出くわす。



人混みの中、子供を理不尽に叱りつける女。
笑顔の固まったサラリーマンの、自慢げなスマホ商談。
ものすごく愛想の悪い「いらっしゃいませ」。
いかにも着心地が悪いんです、というビジネススーツのひと。



そういうのは仕方がない場合も多いし、
全て責められるようなものでもないけれど、

「逃げられるよね」
「前向きに楽しめないのかな」

などと思うことも私は多く、


「逃げられそうな」人の足かせが、

いつも「間違った、変な情報」だということを感じています。







・・・で、カレー教室に話題の戻るのですが、

カレー教室に来ている人の中にもそれを感じることが多い。

そんな事信じて生きなくても、いいのに、と思うようなことだったり、
別の思惑を感じたりすることが。



とある中年女性は、いつも誰かと同伴で来るのだが、いつも連れを放っておいて、レギュラーで登場するらしい、将来はカレー屋さん開業を目指す、的な若い男の子と会話するのが目的のようだ。

その人はもう挨拶の時点で同性には、「おまえなんかどうでもいい」ぐらいの反応で返す。基本怖い顔をしていて閉じているけど、欲望追求は積極的で止まらないタイプのようだ。

若い男の子は愛想がいいタイプだが基本参加者には興味がない。「カレー」に一直線のよう。

私も調理に集中してしまうと人はどうでも良くなるので、この若い男性の中年女性に対する反応をよく見てないのだけど、彼から積極的に誰かに話をするということはない。

中年女性は全く笑わないけど、自分の目的ははっきりしていて、それは調理じゃないんだなということがわかった。






この教室は、本当に手間いらず、な感じに下ごしらえをしてくれていて、
例えば、玉ねぎのみじん切りや、にんにくのみじん切りなどからやる教室もあるのだろう
が、そうではなく、

手軽で、なかなか良いな、と思っている反面、

だからこそやって来てしまう人もいて、


一緒の鍋を仕上げていくメンバーが、どんな気持ちでやっているのか、観ていると伝わってしまう。




例えば進行していくときに、積極的に行おうとしない。

あわよくば、全部やってくれる人がいれば任す、ぐらいの勢いの人がいたりする。

「少しぐらい実際にやったほうがいいよね」と思うので、いろいろと仕事を促すのだけど、少し拒否したりする姿勢。

でも料理教室なのだからやったほうがいいだろう的空気に押され、しぶしぶやりだすと、また、やる気がないとか、火が怖いとか、暑いのに火に近づきたくないとか、・・・

そういう顔と手付きで鍋を混ぜたりするので、私は怖くなったりした。



この日一番最初の調理工程は、「鰯にスパイスなどをマリネする」というもので、
これは私がやったのですが、

お腹のなかや、隅々にスパイスをきちんと塗る、という作業をしていたとき、
「え!お腹の中にまで!」という声があったり、

私がやり始めて、周囲になんとなくホッとした空気が流れたのはこう言うことだったのか、

と私はその時思っていた。(生の魚に触るなんて、やりたくなかったようです)






調理中もずっと、過去に失敗した料理の話や、揚げ物なんてしない、という話や、他の班に比べてこっちの進行遅くない?とかいうネガな話題ばかり。

下手だから料理を習いに来るのはいいし、当然なんだけど、そうではない。

したくないのに混ぜている、と、わからないからやりに来ている、の違いぐらい私には解る。

きっと孤独か暇なんだろうなあ、安全な遊び場がほしいぐらいな感じなんだろう。
私もそういう一面が無きにしもあらずだから、腹は立たなかった。


料理が好きな私も揚げ物なんてほとんど家で食べないししないし、
適当に同調するところもあったのでなんとなく会話に付き合っていたのだが、

総じて、周囲にいた人たちは料理も食べるのも本当は好きではない、というのが結論だった。





試食タイム、になって、私はそれを確信した。

私は、一日のご飯の中心をお昼に定めることが多く、
その日も、前の日のお昼から食べていなかった食事の「断食明け」みたいな状態だったので、

手際よく、魚介のカレーと鰯と玉ねぎのピックル、レモンライスを食べていた。
きれいに、・・僧侶の前世の魂がいつもそうするように、食器に残るものは殆どなかった。





「過食改善WS」では、過食対策だけでなく、
楽しく健康的な食事の基本を教えています
が、

料理はできたてを食べる、のをおすすめしています。


インドーネパール系の人なら基本にあることだし、
科学的にも肉体的にも、時間のたった料理はNGで、できるだけ摂りたくないのと、
レモンライスはバスマティーライスなので、すごく消化が良い。

だから「残してテイクアウトする」という選択はなかった。

更には、魚介のカレーも、スパイス十分!なので、そんなにもたれないことがわかっていたので、「残さないでいいな」というプランで、手際よく、食べていた。



それを、「料理がホントは面倒くさいし怖いし好きではないです」という主婦のひとが見つけて、「食べるの早いですね!」「きれいに食べますね!」という。


私はそんなに食べるのは早くない。食べることに集中しているだけだ。
咀嚼もきちんと時々数えて食べていたりする。

夏は消化系が弱るから、薬膳的見地を取り入れてメニューを選ぶとか、

逆にすべての体にいいという情報を一切度外視してケーキを食べたりするようなことを全部肯定的に捉え、赦し、今の私がある。



そういう地道な努力が、過食症から私を救ったのだが、

過食症に苦しんだ時間のことや、食にまつわる情報のすべてで食べていることや、どんなに私が食べるのが好きかなんて、話すことは出来ない。

いやいや鍋を混ぜていた人に、伝えることなんて出来ない。



黙って適当に「おいしいから食べられてしまう」とか返していたら、
他の人が「そんなに食べるのに、痩せてますよね」「痩せている」と何回も連呼した。


それにも困った。

食べても、消化し、代謝し、全身に巡らせる、ということをこれまた地道に研究しやっているだけだし、
食事の適量なんて、自分の体感で決めるものだ。

しかも、私はスキニージーンズなんて入らないほど、ついているとこにはついているので、痩せているとは思っていない。

それに、痩せていていいことばかりではない。明日私が心臓発作で倒れたら、彼女は羨ましがるのをやめるだろうか、と私は考えていた。


過食症だったことを話しても仕方がないし、私が「太れない」方向の体質だという説明も厄介だし、第一痩せている、と連呼してきた女性は、望診だけでも、体が冷え切っていて、他人は信用できかねる心から蓄える方向に体質を傾けていて、私の半分ぐらいしか食べられない感じなのに、体重は20キロぐらい違う感じのようだったので、話すことがない。

カウンセリングで出会うことは有ったとしても、趣味の場で話すようなことはない。


まるでずるをしている、というエネルギーのこもった「痩せている」、に、私はとりあえず耳を傾けない姿勢で、流した。




体型なんて、健康な食生活を送れることの喜びに比べたら、びっくりするほど小さい。

相手はダイエット食品のCMみたいに「痩せたら人生変わる」ぐらいの見地で発言してきたので、それはわからないし、ダイエットして今の体型があるわけではないので話すことは何もなかった。



こういう発言は、スピ系や自然療法系では無いから楽だな、なんて、ちょっと違う世界の催しを懐かしく思う。

痩せているなんて、筋反射系のお勉強をしている人から見たら、「親に押さえつけられている」かも、なんて思われて、疎まわれたりする原因だったりする。

私はそれに、今の相談業で「心を消化する」ことに消化器や全身を使うことが多いから、食べて太っている事ができないのだ。





その人達は、こういう会では誰でもそうだけど、新しい情報を欲しがった。

でも、参加しなかった回のレシピが気になる、と言われたときには、「眼の前にレシピを売っている人」がいるのに、そんな事言われていわれてもなあ、と思ったので、「ネットで調べたらでてくると思いますよ」と逃げたのは得策だった。

そう言われた人は顔を少ししかめたが、情熱を高め、ネット検索する機会を奪わないのも大切。

でも、多分この人は寂しくて、他人から親切にされる機会を奪いに来ているようだったので、私の行為は都合が悪く感じただろう。




本当は積極的に料理をしたくないし実はあまり興味もないけど教室に来てしまう、という人たちは、みんな、ご飯を食べられないで残して、機会を活かし何かを奪おうと頑張って話を振ってきた。




いつもWSやセッションのときによく話になるのは、

人は、人生を、

「他の人がよくやっている形だから」
「周りの大人や親が勧めてきたから」

ということで選択・進行していくことが多く


しかしそれが不幸のもととなるような場面は多い、

そうではなくて

「自分が好きだから、する」
「ワクワクする、楽しそうだから、やってみる」


ということで行う、選択する



ということが、
なるべく不幸を生まないための基本なのだ、


という話、ですが、


こうして沢山の人が、「流される」という人生を送り、
他人と比較し、羨ましがったり奪い合う、ということに走る、



そんな姿を見ると、

私は「SEX」のユキを思い出す、ということなのです。







過食は、体の底からの、不満や怒りの表現。

自分の中の何かを感じないようにして生きると、食べてないのに太るし、食べたくないときに食べ過ぎるとか、美味しくないものを食べ過ぎる、という人生がやってくるのかもしれないです。


食事は大きい。


そして健康的な食事の底辺には必ず、「したいこと」、への集中した心、がある。


その「楽しい食事」に繋がるすべてを、「過食改善WS」ではお話しています。


食欲の秋対策も、あります。全部、科学的な理由があり、健康的な防止策がある。
皆さま是非。

健康的な食が、健康的な魂を、です。

社会で活躍して幸せに生きるためには、基本になることなのです。



ちなみに、食事で化学物質、添加物やカフェインを控えるのを勧めるのは、
「好きなことがわからなくなる」からなのだが、

世の中に触れるたびに、これらの物質の蔓延度が高いのかもしれないな、
などとも思うが、

実際、化学物質よりも曲がった欲望と情報のもとで育つことのほうが、好きなことがわからなくなることに繋がるのだろうと感じます。


人の心というのは大きい。幼少期は大きい。
ではでは。