(正式名「根性鉄火味噌」。コーヒーはないです(笑)夏の「赤味噌モノ」の第一弾♪
ピーマンやナス、青じそで作る焼味噌も美味しい。赤味噌ばんざい。
これらの味噌とご飯とのりがあったら、夏は生きていける(笑))
婚活、という言葉が世に蔓延してしばらくたった。
私はこういう「いかにも促す」キーワードが嫌いです。
こういう言葉になんとなく流されて人生を送ると、
人や個の本質みたいなものから非常に遠くなるような気がします。
言葉の元をたどると、コマーシャルか体裁好きな老人の欲を満たしているだけのことが多い。
こういう言葉に頑張って生きて、もちろん悲惨な経験をして、真っ暗な顔してうちにやってくる人々の顔は、とても悲しく、見ていて辛いものです。
その言葉が、乗り越える対象でもなかったことに気づくというのが、辛いのだと思う。
こういう不自由にしている世間の「枠」に気づくというのはとても大切なことではないでしょうか。
最近、週末の飲食店で、「あ、この人たち、コンカツ?」っていう人に出会うことが多くなった。
同じくらいの年齢の男女でテーブルに座っていて、緊張感もなく、親密な空気もない、共通の話題もなく、通勤のとき何している、とか、学生時代何して遊んだ、とか会話が遠い「確認事項」で、友人で暇つぶし、っていう感じじゃない。色っぽさも親密さもない。
まさにそんな「取引」の空気を出さないように探っている男女に、週末遭遇した。
二人は「学生時代の普通」や「過去にしたこと」、「知らない友人の話」をして、
30分ぐらいでようやくちらっと女のほうが、「普段うちで何をしているか」と「今の生活」を男に質問した。
そのエネルギーが相手への純粋な興味でなく、「結婚して、変な賭け事とかして生活が安定しなかったら困る」みたいな空気だったので彼女は質問にどもることもためらいもなかった。
ああようやく初めて、迷惑なのは困る、みたいな本心をチラ見せしたなあと思い、改めてその男女の顔を観ると、性欲の低い表情をしていた。女は若いのに化粧もほぼ無い。
こういう男女は、金とか体裁とか性欲とか欲が丸出しっていうパターンより、なんということもなく小奇麗で、収入も程々という感じ、程々に楽しい生活をしているが、なんとも魅力に欠ける、活気に欠けた顔をしている。輝きのなさがある。
普通をやる、ということが主で、退屈で飽きちゃった、という顔をしている。
偏りよりも、毒素で全体がぼやけているという感じが強い人達だ。
「学生時代は、サークルの週末の集まりが楽しみで」「テーマパークの年間チケットをいつも買うか迷う」みたいな話から、「スマホゲームは単純なものしかやらない。すぐに飽きるから消しちゃう」、
つまりは「どう暇をつぶしているか」で、会話は過ぎていく。
この人たちの人生は「テーマパーク」みたいなものなのかもしれない。
傍から聞いていると、「この人達は【何が好き】とか、無いんだろうなあ」と思ってしまい、「ああ、こういうのがホントの不幸、かもしれないなあ」なんて思ってしまった。
私は美味しい料理に舌鼓、だったので、
美味しい料理屋さんの美味しい料理を前に、悲しいな、と思い、
なんとなくうつむいて顔をそらす女の、「カレーのルーとごはんのバランス取るの難しくない?・・・」などという、あ~~、これまた当たり障りのないお話・・・・、が始まって、
悲しいなあ、と思ってそちらを見たら、女の話を聞くふりをしながら、ばれないように男のほうが私をじっと見ていた。退屈だったんだろうなあと思った。女は基本、男は見ないで、料理を突っついて下を向いていた。
まさに「ご飯をみている」(生きていくための)コンカツなのでしょう。
男は、食欲に燃える人(私)を、初めて見るかのような顔だった。
確かに、あなたの周りにはこういう人種いなさそうだ・・・と私は思い、冷めきった料理を突っついているんだか食べているんだかわからないような、男女の集まりをあとに店を出た。
男は、首から上の皮膚が真っ赤で、多分、アトピーなんだと思い、以前に「母親中毒」で、顔面アトピーを出していた人々に出会いまくった時のことを思い出した。
この間、「これぐらいの枠内な感じで、人生やっていってくれないかなあ」というエゴを、子供や他人に押し付けることを自然に人はやってしまう、的な話を書きました。
(「クジャクサボテンに人生を学ぶ・・」っていうブログ)
あの男女みたいな、「そろそろ【結婚する年齢】だ」などというエネルギーは、世に蔓延しているし、更には「子供を産むころだ」というエネルギーも、「就職すべきだ」「大きな会社じゃないと」「正社員じゃないと」「公務員じゃないと」「次男でないと」「痩せてないと」・・・・
いっぱいある。否定はしません。個人に拠るから。
こうやって書いているのを読んでても、全く「だから何?」っていう人も多いのだと思う。
人は基本自由だ、ということがホントは教えられていないこの世の中。
原則自由だけど、実はそうじゃない、みたいな感じなんだろうなと思う。
どこからか流れてくる「~~でないと」という、外部からの圧に沿って生きるというのは、なんにも考えないで良い面では、ラクだ。
誰も突っ込んでこないし、老人を中心にみんな喜ぶことが多く、ストレスは大きいけど、その具体的な原因がぼやかされていて、何を拒否すればいいのかわからないのがみそだ。
こういうのに巻かれる人達は、安全が目的なんだろうなあ、などと感じるけど、
いざ結婚したら、相手はここぞとばかり、欲や利益追求に走り、知らないうちに依存症が止まらなくなってはじめて怒りが出て、。。。が多いんだろうなあ、と、「怒りも出せない」人々の悲しみを感じた。
若い頃ってこういうのが悲しい。私も体験した。
いざ結婚して、お互いのスカスカな心を満たすための依存症が出ても、基本、
「好きで一緒になった」
というのは、強いです。
しかし、多くの場合、決定打が「母親の笑顔」だったとか、「なんとなく」周りの空気を読んで、とかだった気が、・・・だと、悲しく、最後に怒りだけが有って、「何だったんだ!」で終わる事が多いのかもしれないです。こういうのこそ、辛い、です。
結果失敗に終わる、という人生の中の出来事は、有ってももちろんいいのですけど、
「なんとなく、周りが決めたことに流された」っていうのは、凄い怒りが発生します。
怒れてしょうがないのに、誰にもぶつけられないが、抑えられない。
「自業自得だよ」などと、そういうときはほとんどみんなそっぽを向きます。
人生、馬鹿野郎、って思いますよ。。。
オラクルカードの「結婚」のカードというのは、
多くの場合、
自分が好きなことを見つける
好きになったものを信じる
というときに出てきます。
しかし、コンカツ、をしている人々は、
安全・安定以外の「何が好きなの?」
っていう人ばかりで、
せめて「性欲のはけ口がほしい」とか、そういうのもない?・・という人が、本当に多いなあ、と感じます。基本、飢えていない。こういうのも悲しいですよね実は。
結婚したいなら、
紹介されたらとりあえず、出会いや若い時間は限られるから会っておくか、とかより、
「自分は何をしているときに楽しいか」
とかを日常で知ることから、始めたほうがいいような気がします。
自分の好きなものがわからないと、誰かに魅力を感じたりとかが遠くなる気がします。
コンカツ、なんていう言葉に振り回されて、正社員だからとかで人を振り分けるようになる。
人を規格や性能でみるようになる、というのは人の人生じゃないのですね。
「安全そうだが、何が好きなのかわからない・・・」
という人と結婚しても限界が来ると思います。
それは「コンカツ」を強いてきた空気と一緒で、じわじわと、細かい相手の習慣やそういうものが醸し出してきます。そしてコンカツを乗り越えたときと同じように、どうしても別れざるを得なくなる気がします。その時の消耗は、・・・凄い、と思います。
その時人は悪霊を知る、と思います。
安全、ってなんですかね、ってコンカツの会話を聞いていると思いますが、
安全なんて無い、走りたいだけだ、みたいなことをF1のキミ・ライコネンが言っていたような気がするなあ。
人の人生は基本安全ではないので、したいことが確かに見えているほうがいい、ということなのでしょう。
本当に悲しい人生とは、したいこととか楽しいことがわからない人生のことだと、改めて思う。
病気とか、改善目標が解っている人生は、いいほうかもしれないなあ、なんて思います。
・・・・ではでは。