6月12日に青森にある「三内丸山遺跡」に行って来ました。
施設の中に入ったものの、遺跡がどこにあるのか分からず、キョロキョロしていたら、ボランティアガイドさんが声をかけて下さいました。
何と!1時間無料で案内して下さるとの事。
ここは、入館も駐車場も展示場も全て無料!!素晴らしいっ!
ガイドさんがいて下さるのとそうでないのとでは雲泥の差があります。
だって私たちの誰ひとりとして、下調べも何もして来ていなかったから。。(汗)
私は、ここの遺跡は日本最大級というくらいだから、もうずっと昔から知られていたのだと思ってました。
静岡県で言えば、弥生時代の「登呂遺跡」みたいに。
そしたら、平成4年(1992年)に発掘されたばかりと聞いて驚きました。
江戸時代からの書物に土偶が出土した事が書かれており、遺跡の存在は薄々は分かっていたみたいですが、新しい県営野球場を建設することになって初めて調査が入り、本当に遺跡がある事が判明したのだそうです。
どんどん発掘調査を進めていくと、大規模な集落跡がたくさん見つかり、さらに、2年後、直径約1メートルの栗の柱が6本検出された事が決定打となり、野球場建設は中止。
遺跡を保存する事になったんだそうです。
えらいっ!沼津の卑弥弓呼の古墳なんて、道路整備のために潰されそうになったもんね。。(まだ根に持っている 笑)
その6つの穴がこちら⬇︎
穴の中には、「腐らないよう黒く焼いた栗の木」のレプリカが入っています⬇︎
本物は展示場にありました⬇︎
この穴と柱から高さを計測して、想像して復元したものがこちら⬇︎
六本柱建物跡の復元に当たっては様々な意見が出されたそうです。
ただ柱が立っていただけなのではないかと言う意見や、逆に装飾具などもある非常に凝ったものだったのではないかと言う意見も出されたとの事。
結局、屋根のない3層構造の建物にしたそうですが、床があるのに屋根がない、もしくは床がないのに屋根があるというのは中途半端な感が否めず、後々までこれでよかったのかと疑問の声が上がる要因となっているそうです。
普段は登ることはできないけれど、登ってみたかったなあ。
何かの祭祀で使われていた感じですよね。
本当の形をどなたかリーディングして下さらないかしら?
マクモニーグルさ〜ん!!
注目すべきは、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルで全て統一されていることだそうです。
これはその当時すでに測量の技術が存在していたことを示すものであり、約5000年前にここに住んでいた人々が、高度な技術を持っていたことを示すものだそうです。
特に4.2mというのは35cmの倍数であり、35cmの単位は他の遺跡でも確認されているのです。
「縄文尺」ともいうべき長さの単位が、共通規格として全国で共有されていたかも知れないのです。
さらに、これほど大規模な建造物を建てるには多くの労働力を必要としたはずであり、集落居住者の団結力と彼らを的確に指導できる指導者がいたことも推測できるそうです。
また、腐食を防ぐために柱の周囲を焦がすという技術が施されており、現在まで栗の木が残っていたのです。
白川郷の合掌造りも囲炉裏の煙で燻されて、何百年も建物が保存できている原理と同じですね!
大型竪穴式住居⬇︎の中の柱も焦がしてあったようです。
5000前の縄文時代だからと言って侮るなかれ。
エジプトのピラミッドだって、5000年以上昔のものですが、未だにどうやって作ったか分からないし、現代人でさえ作れない技術が存在していたのです。
日本の縄文人も、現代人には想像も出来ないようなパワーがあったかも知れませんし、すごい指導者がいたってことも考えられます。
変わった土偶はその人物を表していた?
高床式建物⬇︎
この建物の柱の組み方も凝っています。どうやって建てたのでしょうね。
長くなってしまったので、次回に続きます。