孝徳の治世白雉4年(653)5月 この時わずか11歳であった学問僧 定恵は遣唐使船に乗って唐へ旅立った。この時の学問僧の顔ぶれは道厳・道通・道光・恵施・覚勝・辨正・恵照・僧忍・知聰・道昭・安達・道觀・知辨、学生の巨勢臣薬・氷連老人・坂合部連磐積である。


この後、私の注目するのは道昭である。


またその翌年2月、矢継ぎ早に遣唐使が送られ、その船には高向玄理がいた。

定恵の師である志賀の漢人慧穏(しがのあやひとえおん)と高向玄理は608年遣隋使小野妹子と共に入隋し、639年新羅の船で帰国しているという経歴がある。

長安についた定恵は玄奘の弟子の神泰法師について修行し

道昭は玄奘法師について修行していた。


唐で修業して1年で、まださほど落ち着かないうちに高向玄理が入唐してきた。

玄理はかつての同朋 慧穏の弟子の定恵を可愛がったに違いない。


定恵には出生の秘密がある。


難波に移り韓半島や唐との対等外交を志した孝徳天皇の忘れ形見か  という噂は

飛鳥の地でまことしやかに囁かれているが

大化の改新で大きな役割を果たした、藤原鎌足の第1子である。

母は車持与志古娘くるまもちよしこのいらつめ)。


第2子は藤原不比等である。

なぜか興福寺縁起によれば天智天皇から鏡の王女を下賜されたことで、

鏡の王女はすぐに藤原鎌足の間に一子をもうけた(659年)。

しかしその第2子は「公(おほやけ)避くる所の事有り」とあり、 天智天皇のご落胤ではないかと言われている。


藤原鎌足はなぜ嫡子であるはずの

そして定恵は孝徳天皇と中大兄皇子との不和が決定的となった653年何かから逃れるかのように遣唐使船に乗って大和を離れている。


またそれを追うかのように翌年には高向玄理が大和を離れている。


この653年にいったい何が起こったのだろうか。


この年は中大兄皇子が孝徳天皇を難波へ残し飛鳥へ斉明天皇、間人皇后(孝徳天皇后であり中大兄皇子の妹)大海人皇子らが引き上げてしまったという事件のあった年で、失意の孝徳天皇は翌年病没している。


その5年後孝徳天皇の第一子有馬の王子は謀反の罪で絞殺されている。(658年)

伯母斉明天皇の失政を批判したという事で謀反と見なされた。


政治が唐、新羅、百済、高句麗の全方位外交から

半島情勢のバランスが崩れ始め、百済が追いつめられてきたじきでもあった。

そして 中大兄皇子が659年孝徳天皇の右大臣蘇我倉山田石川麻呂を謀反の罪で自殺に追い込んだころから、次期天皇の資格のあるものや、力を蓄えてきた者たちを次から次へと抹殺し始めた時期でもあるのです。


























定恵を仏門に入れたのだろうか。

今更 1300年前の事件を立証することは不可能に近いが


表題のテーマが私にとっては憑りつかれたような課題で


いつも脳裏を駆け巡っている。


切り口は3つ


1.  弥勒菩薩の所有者は少なくとも浄土へ生まれ変わる希望などではなく、今この世において多くの   人々を救おうとする下生の思想の持ち主である。

弥勒菩薩は兜率天で修業を積んでいる釈迦の姿である。

しかし一方、救世主でもあり、釈迦滅後56億7千万年後下生し衆生を極楽へ導くとされている。

この56億7千万年後という数字は確かではなく後で付けられた数字で、いつでも下生して救世主として人に生まれ変わる。と信じられていた。花郎(ファラン)思想で、飛鳥時代の政治主導者の理念でもあった。

2.  この思想の発祥は新羅で、遣隋使であった道昭や役行者から行基に至る僧の師弟関係と、理念が一筋の糸となって繋がっていることである。またこれらの僧への支援を続けた隠れたパトロンがいたという事も重要な要素である。

聖徳太子が新羅から贈られた弥勒菩薩半跏思惟像を秦の河勝に下賜し、河勝は蜂岡寺にそれを祀った。国宝1号宝冠弥勒がそれを証明している。

3. 今残されている弥勒菩薩半跏思惟像の持念仏はほとんどが天智天皇の血族者が所持していたという事実である。


以上の切り口からこの信濃の奥安曇野へもたらされた 弥勒菩薩半跏思惟像の縁と因を探ろうと思う。

昨日NHKで夏殷周秦の歴史について上映していた

しかし ミッションインポッシブルが見たかったので、飛び飛びにしか見なかった。


秦が中国中原を支配した時、東夷・南蛮・北狄・西戎をいかに懐柔してゆくかを夏から学んだという。


夏は歴史に残る最古の国家で 現在の東南アジア民族の祖先が築いた国家であった。(BC2000~BC1500)


日本の歴史にかんがみると


BC57年 魏の王から金印を下賜されたのは奴国であり、安曇族そのもので


揚子江での海上民族であったが、BC492 越によって攻め滅ぼされ東南アジアや倭の国へと四散した。


この四散した者たちの子孫が糟屋郡に本拠地を持つ安曇族である。


弥生人が縄文人と混血してゆく過程は

侵略し 女を妻とし、混血した子ともを共有の宝とし、

王はまさに多くの妃を持つことになる。

一人の王が父親となり巨大な墓に眠る限り 多くの妃の子供たちはその墓に集まり

血族の契りを交わすことが出来、お互いを不可侵で信頼できる共闘者として認めることが出来たのだろう。


この思想こそ夏王朝から引き継がれてきた夏子の思想であろう。




一昨日雨の中護持会の会長に頼んで観松院の厨子の扉を開けていただいた。


わたしと息子と村の施設指定管理会社の社長と3人で訪問した。


この弥勒菩薩半跏思惟像は百済の扶余で造られた渡来仏である。


出来た当初は黄金の鍍金がなされたもので国王レベルの所有物であると思える。


この仏像が縁あって松川村にたどり着くわけだが


公式な伝承は何一つない。


しかし、今の全国に散らばっている弥勒菩薩とその寺を開いた僧たちをひも解いてゆくと


その背景にある聖徳太子から始まる弥勒信仰と新羅の花郎信仰が見え隠れする。


日本という国の黎明期から日本人の心の根底にあるものの価値観を含め


早くに滅びた国 伽耶 加羅の人々やそれ以前に日本へ渡来した秦氏たちの思想が


この観松院の弥勒菩薩にもありはしないかと考えるようになった。
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秋が深まって、山は1500mあたりまで雪が降りました。

安曇野はこれから 冬支度です。

近くの小川村では 野沢菜の収穫が始まったようです。


5月に商工会長に就任してから約半年が経過しました。

様々な問題が残されているように感じましたが

一つ一つ出来る事から着手して改善を進めてゆくつもりです。

目的はただ一つ「会員の役に立つ商工会」です。


特許を久々に書こうと思っています。

今年中に出願いたします。

これも技術者としての私の主張でもあります。

内面の充実があって さらにアドレナリンを分泌しないと 特許と言うものはかけません。

昔若い頃小説を書いたことがありましたが、

その時もたしかそういう状況に自らを追い込んでいたことを思い出します。

そしてそれを書き終えたとき充足感というか達成感と共に

カラッポになったという虚脱感のようなものも感じた覚えがあります。


人には様々な人生があります。

私にとってはだらだらと日常の繰り返しより

そういったメリハリと高低のある人生の方に価値を感じます。


皆様はどう思いますか。
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