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あれから教室に戻って、何食わぬ顔で過ごして。

帰りのホームルームで回ってきたプリントへ手を出したとき、自分の手にふと目がいった。

 

てて、ねぇ…。

俺の手はたしかに綺麗だと昔から有名だけど、わざわざそれを呼び名にするかね?

しかも「お手手」って、幼児語じゃないか。ぐぅは面白いな。

 

思わず右手をちょっと空中にかざして見ていたら、

 

「藤堂くん、何してるの?」

 

不意に後ろから女子の声がした。

 

俺のことは皆、同級生たちは藤堂くんか藤堂さん、と呼ぶ。

上級生は藤堂と呼ぶけど先生方や客人がいるときなど、人前ではやはり、「くん」か「さん」で呼ぶ。

この学校は武家用の塾だったから、いまだに創立者の藤堂家当主・次期当主への敬意や上下関係がある。

だから学長ですら、おいそれと俺を怒ったり、何かするなんてできないし、

先生方も俺へは、「さん」か「くん」付けだ。

 

「…」

 

媚が入ってるその声に、ちっ、と内心舌打ちをする。

せっかく楽しい気分だったのに、よくも邪魔したな。

 

「…ちょっと手見ただけだけど」

 

それが何か?と、胡乱な目を投げてやる。

あぁ、こいつ浅野か。

 

俺の視線に詰まったようだけど、次の瞬間

 

「…うっ!!」

 

隣のぐぅが小さく呻いて息を詰めた。

いきなり浅野が背中を思いっきり、ぶっ叩いたからだ。

 

「あんた何様!?ちょっと美人だからって、なに調子乗ってんの?」

 

イラっとするが、これだけでは俺は立場上、声はまだ出せない。

その理由が判明するまでは、だ。

でも、来てまだ1ヶ月とたってないこいつが何をしたっていうんだ。

少なくとも俺が見てる限りは平穏無事って感じだけどねぇ。

 

黙って首を捻ると

 

「あんたさ。ちょっと呼び出されたからって、女子のくせにちゃっかり藤堂くんの隣になるなんて、

 どういうことなわけ?どんな汚い手使ったの?なに、体でも投げ出したの?」

 

教室中に響き渡る大声。

ぐぅと違って、きったない声だなぁ、おい。

 

ぐぅはびっくりして、ただ目を丸くして固まっている。

 

あ… そうか。俺しかぐぅが男だって知らないんだったな。

そりゃ俺が迂闊だった。

 

「あのな、ぐー。お前来たばっかりで知らないからしょうがないんだけど、

 俺の席の前後左右斜め360度全部、女子は絶対いないように決めてあるんだ」

 

背中はだいじょうぶかと聞くと、嘘か本当か、こくっと黙って頷く。

 

なんだよその可愛さ!

こくっ☆って、もう… お前は子供か!

可愛すぎるだろ…。

 

思わず目尻が下がりかけるが、慌てて我慢する。

 

これは何か早急に考えないとまずそうだな。

でも…

 

「浅野」

「うん、なぁに?」

 

急に媚びた声と顔するんじゃない。そんなの、微塵の「み」の字も可愛くも屁でもない。

お前なんか比べものにもならないんだから、とっとと失せろ。

…とは、さすがに口には出さないけど。

 

「そりゃあ随分と俺に、失礼極まりないこと言ってくれるな」

 

ゆっくり立ち上がって上から見下ろしてやる。

俺は180近くあるので、平均的身長らしい浅野をかなり見下ろすことになる。

 

「俺がそういうことに惑わされるような、低俗な人間とはいったい、どういうことだ」

「あ…」

 

腕組みしながらじろりと睨むと、さっきの威勢はどこへやら。

 

「…そ、そんなこと言ってな…」

「いーや、言った。こいつに『体でも投げ出したの?』って。つまりそれって、それで俺が隣を許可した、

 と言ったも同然じゃないか。ん?」

「…」

 

そんなおどおどしたような顔したって駄目なんだよ。

思ってなきゃそんな発想、出ないからな。

 

「何が違うっていうんだ。違うなら何か言ってみろ」

 

重ねて言うと、浅野はうろたえ始めた。

すがるように他の席にいる友達たちを見るが、みんな目を合わせようとしない。

 

「それとな。ぐーが俺の隣になったのは、そもそもお前たちが『面倒な席の位置だから押しつけた』のぐらい、

 俺はわかってるんだよ。そういう時だけ、押しつけるんだな。

 それにじゃんけんで負けたからこの席なんであって、もしかしたら違う奴だっただろ。

 それのどこが、ぐーが悪いんだ。何ひとつ、ぐーのせいは無いはずだがな」

「…」

「そうじゃないと、言えるもんなら言ってみろ」

 

浅野は何も言えずに黙っている。

そして俺はあることに気付いた。

 

「まさか…。押しつけて、わざとこの席にさせようとしたの、お前なんじゃないだろうな」

 

俺は浅野の肩が僅かに揺れたのを見逃さなかった。

こいつ…っ!

 

「なんで俺が教室で2つの席しか座らないか、なぜ360度女子を排除してるか、理由を知りもしないで、

 勝手な面倒ごとを起こすんじゃない!無駄に俺の用を増やすな!!」

 

しーんと静まりかえっている教室に、さぞ俺の声は…いや、廊下や隣の教室にまで聞こえてることだろう。

浅野は初めて俺に怒られて、どうしていいかわからず俯いているだけだ。

まぁ、反論したくても何もできないしな。

 

「なぜ否定しない?席替えで事前に画策したのは本当にお前か?否定しない限り、

 そうだということでうちの当主へ報告だ」

 

報告と聞いて、途端に浅野はぶんぶんと首を振る。

 

「じゃあ、なんだ。どういうことなんだ、あれは」

「…」

 

イラついて怒鳴りつけたくなるのを抑えようと、俺は溜息をついた。

 

「黙るのは卑怯だって、わかってるんだろうな。…他に何か言うことは?」

「…」

 

黙秘するとは図々しい。こいつ女子だけど、ほんとに蹴っ倒してやろうか。

ぐぅが黙っちゃうのは可愛いけど、お前はちっとも可愛くない。

それどころか、イラつかせるだけだ。

 

「…そうか。お前はごめん、という言葉を知らないようだな」

 

まったく、どこまでもいい度胸してるな。

 

「来たばっかりで何も知らないぐーへ、まだいろいろ教えてやってない俺にも非はある。

 これから徐々に教えていこうと思っていたところなんだ」

「…ふぅん。そんなの私達が教えるからいいのに」

 

思わず出た言葉だったんだろう。

小さく呟いたその声は、超面白くなさそうだ。

お前たちに任せたら、初日に大怪我か、下手すりゃ死にそうじゃないか。

 

「そんなの、とはなかなかな言い草だな。『そんなの』で、そんな軽々しいことで悪かったな」

「あ…」

 

浅野って実は、超馬鹿なのか?

それとも考えなしに、思いつくまま口にしちゃうのか?

 

「そんな程度の規則や決まりなんだから、お前は守らないで破ればいいじゃないか」

「…」

「でも、それがあるから平和が保たれてるのは確かなはずだけどな。

 …ところで、俺へは謝らなくていいのか?へぇ。いつから浅野はそんなに偉くなったんだ」

 

それに、と続けてやる。

 

「ぐーへも謝れ。何もしてないのに、いきなり背中を思いっきり叩くとはどういうことだ。

 もしそれで当たりどころが悪くて死んだり何かあったら、どう責任取るんだ?

 このことは成瀬家にも伝えておく。今度何か面倒ごと起こしたら…本当に怒るぞ」

「…っ」

「わかったら行っていい」

 

浅野はぐぅを一瞬睨むなり、教室から出ていった。

 

 

(続く)