信仰の根
私達は、日々の生活の中で、そのほんのささいな事で心を揺らしてしまう事があると思います。
その様なときに、反省をしなくてはと思いながらも、また日々の生活の中に流されてしまい、いつの間にか反省の機会を逃してしまっているのが実情では無いかと思います。
そして、時間の経過と共に段々と悟りを求める心まで、小さくなってしまっているのでは無いでしょうか。
確かに人の心というのは、、天台智顗様が言われる通り、千々に動き一念三千の世界に通じると言う様に、非常に不安定で動いているものだと言う事は、既にご存じの方も多いと思います。
ただどこまで行っても、何があっても不動の境地ありと言われる部分も、その境地としてはあるでしょう。
しかし、人間の表面の部分では千々に動いておるのが実情でしょう。
この浅いところで揺れ動くのは、やはり根が浅いと、もろに動きますし、動かされるものです。
少しの事で心が動く、ほんの小さな事で動揺する。
僅かな事で気持ちが変わる。
こう言った事は、いくらでもあります。
それがあるうちは、やはり物事を大成すると言う事は、難しいと言わざるをえないでしょう。
心を揺らしに来るものは、いくらでもいます。
その時に、いかにその心を統御出来るか出来ないか、そこのところをこそ問われていると思って間違いないでしょう。
その時に、やはり心が揺れたと言う事は、それは修行の課題であると言う事でもあります。
少しの事で、心を揺らされると言う事は、その程度であると言う事であると認めざるを得ないでしょう。
いかに深く根を張ってるかと云う事は、非常に大きな問題であって、このところが浅いと、強風が吹けば根こそぎ揺れて抜けてしまう事もあります。
そう言う信仰心であると、言う事でしょう。
その様な、か弱い信仰であると、言う事が現状ではないかと思うに至ります。
これは、多くの人々の場合にも、そう言った傾向が見られるのではないかと思います。
確かに、根の深い方達もあるでしょう。しかし、それでも仏の法の重さに照らしてみれば、あまりにも浅薄で揺れやすいと言う事が言えるのではないでしょうか。
心を揺らさず、何事にも動じることなく、どっしりとしたその心を確りと持ち続ける強さを持つためには、これは、日々の教学と反省・瞑想、そして、より多くの体験を積む事ではないでしょうか。成功体験です。
日々の小さな成功を数多く積み重ね、その信仰心により一層の自信を持って、磨きをかけれる様な小さな成功を数多く積み重ねる。
それはいかなる事をもって成功とするかは、おのずがそれぞれに考えれば良いと思います。
その実体験なくして、いかに書籍を読もうとも、これを深く根付かせることをは難しいのではないでしょうか。
この様に、生きる意義はそこにあると思います。
それらの事を実践しないから、根が浅いままと言う事に成るのではないかと思います。
今日は、「信仰心の根」と言う事で述べさせて頂きました。
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