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幾星霜遥かのブログ

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私もその時素直になったのかも 不思議な経験

 

「素直になる」ということ。

それは、自分自身に素直になること。

自分の心に抗うことなく生きること。

 

私がキラリ☆さんのブログで出会った最初のテーマは、私の数十年前の不思議な体験を呼び覚ましてくれました。

 

<時期は昨年115日投稿の次のブログ記事の頃です>

眠りの世界へ―素直さを忘れて

http://ameblo.jp/argtsbt/entry-11449924584.html

 

 

UCに入ってまだ日も浅い頃のことです。20代も半ばにはまだ遠い青臭い私が、信仰生活の煩悶の中で献身し、40日の開拓伝道に行くことになりました。――その頃のUCは相当な時間を割いて万物復帰は行っていましたが(UCから万物復帰が消えたことはありませんが)、あくまでも活動の中心は伝道でした――私が赴いた地は、教会やホームはまだ設置されておらず、ゼロからの出発となりました。

 

確か11月に入っていたと記憶しています。

季節は晩秋。

洗面用具とわずかな着替えをバックに詰めてうすら寒い任地の駅頭に降り立ちました。

さあこれからどうするか。知り合いもない縁もゆかりもまったく無い地です。早速講論販売でも始めるか(片道切符代だけをいただいていましたので、まったくの無一文です)、それとも今夜の寝ぐらの目処をつけておくか。

何十年か後、キラリさんをはじめ、多くの日本の女性信徒たちが海外宣教で苦労された話を聞くことになり、自分の国内での開拓伝道など児戯に等しいと恥ずかしくなる思い出ですが、当時の私は開拓伝道がどういうものか分からず、乏しい知識の中のキリスト教の宣教者の証などを縁(よすが)として、通りがかりの人に声をかけることを始めました。

 

しかし、以前の教会生活で“兄弟姉妹”と黒板を抱えて路傍で講義し、伝道したときとは勝手がまるで違います。一人ではなく“兄弟姉妹”という複数での行動は、人に何らかの組織や団体の存在を感じさせます。黒板や出版物は何らかの主張があることをアピールします。つまり、受け入れられるかどうかは別として、不特定多数の通行人に対して、特定の何者かの存在を知らせることができます。ところが丸裸の個人が関係性をまったく持たない人々の群れに入ったとき、これほどまでに無力なのか、存在感が無いものなのかと絶望感がひたひたと押し寄せてきました。

その上、開拓“伝道”とはいうものの、私の中身は“証人(あかしびと)”とは程遠い状態だったのです。

 

開拓伝道は孤独なもの。それは当たり前ですね。宣教者たちはもちろんのこと、UCの先輩や同輩たちの証を聞いても、さらには他宗教の布教者たちの伝記を読んでも、皆天涯孤独の立場からの出発です。世に頼るものなく、ただ神仏のみを頼りとして荒野に降り立っていきました。

ところが、この時の私の信仰のレベルはそのような先達とはあまりにかけ離れたものでした。統一原理を聞いて、頭で受け入れ、信じるか信じないかの二者択一を迫られたとき、信じることを選択しUCに入ったものの、“信仰生活”それ自体は自己矛盾と葛藤で心が千々に乱れる日々の明け暮れでした。そんな私が開拓伝道に出たのは、信仰についての決着をつけるためであり、また開拓伝道に出させたUCは、潰れてしまったら私の信仰がそれまでのものであると認めるしかないということだったのでしょう(ただし、祈りは続けられていました――終わってから知ったことですが)。

 

冊子が売れたのか、原理講論が1冊ぐらい販売できたのか、定かには覚えていませんが、路傍での活動をひとまず終え、どこかに祈るための“聖地”決めなければと、街の中をホッツキ歩いてなんとか木の繁みもある落ち着いた公園を見つけることができました。UC的にいえば“基準の低い”私でしたが、それでもしばし持ち得た祈りの時にホッと一息つくことになりました。

そして、陽も陰り始めました。

今夜はこの公園に野宿となるのか…。

 

もともと人見知りの激しい人間でしたから、寝ぐらを探す交渉事も得手ではありませんでしたが、公園の夜はさすがに寒そうで、宿を求めて街中に戻ることにしました。

といいましても、まったく当てはありません。小一時間うろついていましたが、小銭の寂しい音がするポケットを撫でながら夜の帳の下りた街の明かりに、足の痛みも覚え立ち止まってしまいました。万事休すです。

 

しかし暗闇の中でバッグ一つを下げていつまでも立ち尽くす訳にはいきません。人通りもありますし…。とにかく横になるところを求めて、あの公園に戻るしかないかと歩き出した先に小学校の影が目に入りました。

もしかしたらと通用門らしきところの扉を押すと鍵が掛かっていません。

「これはひょっとして…」

意を決して入りました(今でしたら絶対無理ですね)。

少し歩を進めると小屋があります。ここも引き戸には鍵が掛かっておらず、そっと開けると、『石炭小屋』でした。当時は小学校の暖房は石炭ストーブだったんです。

 

余談ですが、それから40数年後、仕事の関係でかつて開拓伝道で訪れたこの地を訪ねる機会がありました。街の雰囲気はさすがに時の経過を感じさせられましたが、通り道がほとんど変わってはいないためあの小学校にたどり着くことができました。もちろん建て替えられています。そして校門は通用門を含めガッチリと閉められています。周りをぐるっと回ってみましたが、もう石炭小屋の面影を感じさせられる建物はありませんでした。当然ですね。

通用門の方角から見える校舎にかつて無断でお世話になった石炭小屋を思い出しながら、しばし黙想し、そっと「ありがとうございました」とつぶやき、小学校を後にしました。