みなさま、こんにちは!

 

 

 

本日は、また別の文献を読むことになりました。

 

タイトルは

McWilliam, Erica L. & Taylor, Peter G. (1998) Teacher Im/material: academic teaching and the new pedagogics of instructional design. Educational Researcher, 27(2), pp. 95-105.

 

分野は教育学。本論文は、e-learning など教育のデジタル化が進むなかで、「先生」という存在はどのような役割を果たすのかについて説明しています。

 

筆者はオーストラリアの教育学者で、原文はネットからダウンロードすることができます。今回は内容が文系なので、前回の理系の論文とは違って自力で理解が可能でしたが時間の効率化を図るために前回覚えた 無料機械翻訳ソフト(DeepL) を利用しました。

 

以下、文脈は無視して、自分が気になったパッセージを引用し、タイトルとして適当に小見出しをつけました。それに機械翻訳による和訳をそのままコピペして、自分のコメント(感想)を入れてます。興味関心はもとより、今の機械翻訳がどれだけの仕事をするのかについても、ぜひシェアさせていただければと思います。

 

 

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1.女教師と生徒の関係

 

The first is that the student’s interest is not an overtly sexual interest, but it is physical, a recognition of the teacher as a ‘body of knowledge’. Importantly for our exploration of pedagogy and access, the teacher’s desire to teach appears to converge with the student’s desire to learn, to be instructed, as mutual, embodied self-interest. The teacher did not ‘seduce’ his student by overtly flattering her, but rather by performing his scholarship with his body (“he has the face of a scholar”) and by acknowledging her approximation to his pose, his love of the discipline. Importantly, the student here does not mistake the teacher’s erotic performance as an invitation into a relationship with him (“it did not make me see him particularly”) but experiences it as a irresistible invitation into the love of poetry

 

(第一に、生徒の関心はあからさまな性的関心ではなく、身体的なものであり、「知識の体」としての教師への認識であるということである。教育学とアクセスに関する私たちの探求にとって重要なことは、教師の教えたいという欲求が、生徒の学びたい、指導されたいという欲求と、相互に具現化された自己利益として収束しているということである。教師は生徒にあからさまに媚びることで生徒を「誘惑」したのではなく、むしろ自分の体を使って(「彼は学者の顔をしている」学問性を実践することによって、彼女が彼のポーズ、彼の学問への愛に近似していることを認めることによって、生徒を「誘惑」したのである。重要なことは、ここでの学生は、先生のエロティックなパフォーマンスを、先生との関係への誘いだと勘違いしているのではなく(「特に彼に会わせてくれたわけではない」)、詩の愛への抗いがたい誘いとして体験しているということである。)

 

☞和訳はまったく手直ししていないのですが、読めますね。論文全体は教員の身体性について論じているのですが、それがまさか、教育とエロとの関係に踏み入る内容となっているとは!)

 

 

2.教育におけるSM的要素

 

The kinds of pleasure teachers may take in their work is, of course, a sticking point for feminists and other critical writers who point to the fact that this pleasure is all too often at the expense of the student-as-prey.

 

(教師が自分の仕事の中で取るかもしれない喜びの種類は、もちろんフェミニストやその他の批判的な作家たちにとっては、この喜びがあまりにも多くの場合、生徒としての「プレイ」を犠牲にしているという事実を指摘する上での難点である)

 

☞ the student-as-prey. の和訳が 「生徒としての「プレイ」 訳されているのはいささか残念ですが、この程度のミスなら、すぐ気がつくので問題ないですね。というか、もう、学術的な問題とはまったく違う個人的な感想を言わせてください。

 

だから、わたしは、教員という生きものが、嫌いなんだー」

 

教員をしている友人が申します。「教員は3日やったら止められない」。わたしは、この友人は生徒を the student-as-prey」(パワーバランスにおいて弱者として搾取される側に立つ生徒)と無意識に認識しているからこそ、こういうセリフが言うのだと思うのです。パワハラをする相手として、恰好の餌食と思っているのではないかと疑るのです。この論文は、みごとにそうした教員の本性を内省的に暴いていると思います。

 

 

3.メタファとしての 「アイリッシュマン」

 

He notes the importance of the “feudal-like economy” of the university as the frame for a pedagogy “in which symbolic and material capital are dispensed, and filiation and fidelity returned” (p.96). Importantly, as he goes on to say, such structures are not lived in abstract but are experienced as palpable:

 

(彼は「象徴的な資本と物質的な資本が分配され、親権と忠誠が返還される」教育学の枠組みとしての大学の「封建的経済」の重要性に注目している(p.96)。重要なことは、彼が言うように、このような構造は抽象的に生きているのではなく、触覚的に体験されているということである。)

 

☞この「親権と忠誠が返還される」上下関係は、先日レビューした「アイリッシュマン」のジョーペシとフランクの「おまえは俺の子だ」に通じるものを感じます。だからここでは反骨を覚えなくてはならないのに、上の者に褒められてうっかりと喜んでしまう自分の不条理に腹立たしい。恥を知る者として憤死したいくらいです。褒められると嬉しいってなんなんでしょうね、ああ、悔しい。

 

 

4.「とっぽさ」は如何に教えられるか

 

Simon argues that the face-to-face encounter matters in as much as it allows the display of how he performs with his body and utterance a Jewish identity with the purpose of rupturing those totalizing categories like ‘Jew’ which produce the effects of marginalization (p.102). 

 

(サイモンは、「ユダヤ人」のような全体化されたカテゴリーを解体する目的で、ユダヤ人としてのアイデンティティーを自分の身体と言葉でどのように実行しているのかを示すことができるという意味で、対面での出会いは重要であると主張している(p.102)。 )    

 

☞まー結局、「とっぽくない人」がいくら「とっぽいこと」について解説しても、なにも伝わらないわけですよね。嘘っぽすぎますよね。何かを「教えるー学ぶ」関係が成立するには、文字情報のみならず、それを体現する人がいて、また、その人を眼前にして、その要素が説得力をもって解体されー解説されうる=教授が可能になるということになるのではないかと思います。というか、「子どもを東大に受からせたいなら、東大生と一緒に遊ばせればよい」と言っていた先生もいましたが、至言だと思いますね。人は、そうやって学ぶんだと思うんです。

 

 

5.教員の身体性

 

Clearly access is not merely a matter of more technology or higher technology, but of getting the pedagogical rationale right in the light of more compelling theories of the body and of technology. (中略)  While information is conflated with knowledge, and while minds are divorced from bodies as the site of knowing, we should remain sceptical about the capacity of a techno-culture to make the sorts of pedagogical judgements which maximise access and minimise marginalization. (中略) Then perhaps we can start bringing new thinking tools to bear on learner marginalization, and this will include new thinking about how the teacher’s body matters.  

 

アクセスとは、単により多くのテクノロジーやより高いテクノロジーの問題ではなく、より説得力のある身体とテクノロジーの理論に照らして、教育学的な理論的根拠を正しいものにすることである。情報が知識と混同され、知の場としての身体から心が切り離されている間、私たちは、アクセスを最大化し、疎外化を最小化するような教育学的な判断を下すことができるテクノカルチャーの能力に懐疑的なままでいなければならない。それには教師の身体がどのように重要であるかについての新しい思考も含まれるだろう。) 


 ☞結論としては、いくらPCなどで学習機会を増やしても、先生から教わることはあるわけなので、偏らないハイブリッドな教育法を追究していくべきだろう、という感じではないかなと思います。昨今は教員の役割は、システムの設計者(インストラクショナル・デザイナー)みたいなポジション取りで語られることもあるかと思うのですが、そうなると、最終的には教壇に立つ教員は要らない、シンギュラリティには失われる職業、という発想になるかと思うのですが、人間の学びというのは、そう簡単なものではないという感じですかね。途中で引用されていたバルト (Roland Barthes (1978)☟もいい感じでした。

 

I can do everything with my language but not with my body. What I hide by my language, my body utters. I can deliberately mould my message, not my voice. It is by my voice, whatever it says, that another will recognize that ‘something is wrong with me’... My body is a stubborn child, my language is a very civilized adult. (p.45) 
 

私は言葉を使って何でもできるが、身体を使ってはできない。私が言葉で隠しているものは、私の身体が口にする。私は自分の声ではなく、自分のメッセージを意図的に形成することができる。それが何を言おうと、私の声によって、他の人は「私は何かが間違っている」と認識するのです...。私の身体は頑固な子供であり、私の言葉は非常に文明的な大人なのです。(p.45) 

 

 

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本日は文字ばかりですみません。そして、機械翻訳を使えば時短になるかというと、そーでもないというか、というより、こまかく読むより、アブストだけざっと読んで、むしろ量をこなす展開の方がよほど時短=効率的のように思えてきました…。

 

では、本日は以上です。ここまで読んでいただけた方が万が一いらしたら、本当に、ありがとうございました。