高校ボクシング界で名を挙げた上原兄弟は、そろって日本大学へ進学する。

 

大学へ進んでも快進撃は続き、兄康恒は全日本ライト、ライトウェルター級を制し、弟晴治(フリッパー)も同フェザー級を制した。

 

当時の日大はあの柴田勝治&川島五郎体制。

 

後にそれぞれJOC委員、日大理事長(柴田)、日本ボクシング連盟会長(川島)を務める大物だった。

 

部員から「王様」と呼ばれていた柴田の寵愛を一身に受けたのが上原康恒。

 

何と柴田家の養子に入るという話も有ったとか?

 

事実柴田夫人葬儀の際に遺影をもったのは、上原だった。

 

五輪出場(ミュンヘン)を期待されていた上原だが、代表決定戦を兼ねた全日本戦で風間清(後のバトルホーク風間)に敗れ、出場を逃す。

ただ風間は五輪代表に選ばれずに、何とライト級代表不在。

 

当時、絶対権力をもつ柴田の手の中に全てが有った。

 

失意の上原に協栄ジムからスカウトの手が伸びる。

 

契約金は何と1千数百万円。

 

この協栄とのプロ契約に日大側が激怒。

 

何と右翼団体までもが動き出すという騒動となる。