1961年(昭和36年)7月、地上7階、地下2階という「リキ・スポーツパレス」が落成(現在の渋谷道玄坂)。

 

2階には収容人数3000名の会場も収納するという規格外の殿堂。

当時の金額で15億円という巨額が投じられた力道山の城が完成し、その披露目には美空ひばりら多くの芸能人も駆けつけた。

 

「プロレスよりもボクシングが好き」という声もあった力道山は、ボクシング界進出を目論んでいく。

 

同年11月、力道山は米国からヘビー級選手を呼び、興行を行うことを打ち出したが、ボクシング界の反対にあいエキシビションへ。

 

ボクシング界進出を諦めきれない力道山は、政治家、裏の力を使いボクシングジム設立へ邁進。

 

ただここでボクシング協会・本田明帝拳ジム会長も裏には裏をと住吉連合・阿部重作氏をたて力道山側と対峙し、手打ちと相成った。

 

諸項目の中に「力道山はあまり表に出ない事」との文言があったという。

 

阿部氏は翌年引退したが、この件は継承され力道山側への睨みは続いていく。

 

力道山はボクシングジムのオーナーではあるが、別個にジム代表をおくことになる。

 

そこで駆り出されたのが、毎日新聞スポーツ部記者・伊集院浩氏。

 

これが悲劇の始まりであった。