次々と思い出の名ボクサーが世を去っていく。

9日にアーロン・プライヤーが逝去した。

プライヤーの名前を知ったのは、80年8月、名王者アントニオ・セルバンテスを4RKOし、タイトルを獲った試合の記事。(WBA世界ジュニアウエルター級タイトルマッチ)

但し当時34歳になっていた老雄セルバンテス。

プライヤーの快挙というよりもセルバンテスの衰えによる必然的な敗北の感が強かった。

当時、日本のメディアでは差ほどプライヤーの評価は高くなかった。

曰く「ライト級上がり」「バランス悪い」「手打ち」「一発パワーはない」「アゴが上がっている」「アゴが弱い」「スタミナが未知数」

しかし後でとんでもなくタフでスタミナのお化けであることが、判明するのだが・・・。

1982年7月に5度目の防衛戦で亀田昭雄と対戦。

1R亀田がカウンターでダウンを奪うなどバランスの悪さは相変わらず。

結局6RTKO勝ちをするが、何度も何度もダウンから立ち上げる亀田の奮闘が目立った。

この試合は当時リングマガジンからビデオを購入し、何回も繰り返し見た。

亀田は試合を振り返り

「当たれ弱い自分が何度も立ち上れた。プライヤーは一発のパワーはない」

そして次戦で4階級制覇に挑むアレクシス・アルゲリョとの対決が実現(1982年11月)

アルゲリョ信者の自分は、100%アルゲリョが倒すと信じていたが、結果はショッキングな結末。(14Rアルゲリョが失神)

テレビ東京でも放映されたこの試合。

アルゲリョの体の重さも感じたが、何故あの右を食らってプライヤーが倒れないのか、TV画面の光景が信じられなかった。

試合後、囁かれたプライヤー陣営の薬物疑惑。いわゆる「ブラックボトル」。

真偽のほどは分からないが、悪人中の悪人セコンド、パナマ・ルイスだけに・・・。

但し再戦で初戦以上にスピードアップスタイルで肉薄したアルゲリョに完勝(10RKO)

相性もあるが、アルゲリョが勝てなかったのは事実。

この試合を最後にプライヤーが再び輝くことはなかった。

文章にするのも憚られる程の不遇な生い立ち。

ボクサーとしてもアルゲリョ以外のビッグマッチに恵まれず、引退後も心身ともに苦しんだプライヤー。

1Rから相手が誰であろうとお構え無しで、パンチを振るって行ったプライヤー。

確かにセオリー無視の破天荒な攻めも有ったが、一方で自身のポジションを変えサイドからの攻撃への意識も強く、天性のタイミングをも持ち合わせていた。

決して満たされない数々の怒りから来るのであろう、嵐のような攻撃。

エキセントリックな行動の数々。


波乱万丈の人生を送ったプライヤー。安らかに。