前九年合戦は1051年から1062年まで約12年間続きますが、彰子中宮の病気平癒を祈願するため戦闘中止命令が出された期間があり、阿久川事件が起こるまでの空白期は実際の戦闘には含まれないと考えられます。
安倍貞任は討ち死にし、兄弟や親族の多くは移住させられたり、奴隷として厳しい環境に置かれたりしました。頼義側から離反して安倍氏に加わった藤原経清は、首のあたりまで土中に埋められ、刃のこぼれた刀でノコギリ状にゆっくりと切りつけられるという残酷な方法で頼義に処刑されました。1063年には、貞任と経清の首が京に運ばれ、さらし首にされています。
経清の子である藤原清衡と母の有加御前は、戦利品として清原武則のもとへ連れていかれました。清原氏は奥六郡と出羽国を手に入れ、鎮守府将軍として勢力を大きく伸ばしていきます。
源頼義はこの戦いで勝利しましたが、清原氏の支援がなければ勝利は難しかったと考えられます。戦後、頼義は多賀城を離れ、伊予守に任命されました。それでも頼義は、この戦いに協力してくれた武士たちに自らの身を削って恩賞を与え、源氏は東国武士から大きな支持を得ました。この前九年合戦には、頼義の長男である八幡太郎義家も参戦しており、経清の子・清衡は当時わずか六歳の少年でした。
20年後、後三年合戦で義家と清衡が再び出会うことになるのは、まさに歴史の不思議な因縁といえます。
清衡と有加御前は羽後国へ移住しましたが、その場所は現在も確定していません。武則の嫡男・武貞と有加御前は夫婦となり、武貞が「荒河太郎」と呼ばれていたことから、現在の大仙市協和周辺が居住地であった可能性があります。近くには唐松神社があり、また清衡が払田柵に務めていたとする研究者もいます。
劇画後三年物語より
清衡は「清原清衡」と名乗るようになりました。彼の兄弟には、武則の子である清原真衡(さねひら)と、武貞と有加御前の間に生まれた家衡がいました。真衡は海道平氏の平成衡(しげひら)を養子とし、常陸平氏の多気権守宗基の孫娘(父は源頼義)を妻に迎える祝宴を催しました。この席に叔父の吉彦秀武が祝いの品を持参して訪れました。朱の盆にうずたかく金を積んで目の上に上げて庭に進み膝まづいていましたが真衡は囲碁に夢中で秀武を嫌い、長時間待たせた末に会おうともしませんでした。秀武は怒り、祝いの品を投げ捨てて帰ったと伝えられています。そして持ってきたお祝い品を竃に捨てて出羽に逃げ帰りました。
秀武は清原一族から郎従に落とされ、深い恨みを抱くようになったと考えられます。郎従とは、主人の身の回りの世話や護衛、雑務、使い走りなどを行う下級武士・従者を意味します。
この恨みを発端として、秀武は兵力の劣勢を補うため清衡と家衡をそそのかし、真衡の居住地近くへ軍を進めました。しかし真衡が急ぎ帰還すると、清衡と家衡は兵を退きました。これが1083年9月頃の出来事とされています。この騒動を受け、都から八幡太郎義家が陸奥守として多賀城に赴任しました。
真衡は国府に出仕し、「三日厨」で良馬50頭、金、鷲羽など大量の献上品を捧げました。その後、真衡は出羽の秀武討伐に向かいます。これを知った清衡と家衡は真衡の屋敷を襲撃しますが、真衡の妻が巧みに義家へ助力を求め、頼義の出馬によって清衡と家衡は敗走しました。
その後、真衡は義家と同盟し、秀武・清衡・家衡と対立する構図になりますが、真衡が急死したため、義家は清衡と家衡を赦し、真衡の領地である奥六郡を二人に分割して与えました。清衡には胆沢・江刺・和賀の豊かな穀倉地帯が、家衡には稗貫・志波・岩手の未開地が与えられました。
この分割に家衡は強い不満を抱き、義家が呼びかけた和睦の宴にも出席しませんでした。こうして両者の対立は決定的となり、出羽国を主戦場とする後三年合戦へと発展していきます。


