柏 通り魔事件 に思う [金曜日担当:管野] | 教育研究所ARCS - 独断的教育論 -

教育研究所ARCS - 独断的教育論 -

教育現場のプロ3人衆による本音トーク

連日報道されている柏市の通り魔殺人事件

あまりに近い場所なので私たちもある意味振り回される日々でした。


現場は我が塾からも歩いて行ける距離。当日はさっそく休塾にするなどスタッフもアタフタと対応に追われました。



我が家にも小学生と中学生のチビッ子(?)がいるため、容疑者が逮捕されるまで何となく落ち着かない気分でした。


連日テレビで報道され、映し出される風景は実際に自分が住みなじみのある場所ばかり。

普通に暮らし当り前に過ごしている街並みや道路が、通り魔殺人の「事件現場」というオドロオドロしいフレームを通して映し出されている。


何とも奇妙な感覚に襲われます。



今回この身近な場所で起きた凄惨な事件。

私は大きく分けて2つの感想を持ちました。


1つは、当事者意識と責任感の問題


もう1つは犯人と覚しき若者の心の闇についてです。



1つめは全く私の個人的な問題で、要するに事件現場周辺の住人という“当事者”になってみて初めて、事件の衝撃やら犯人に対する恐怖、怒りといったものがナマナマしく感じられ理解できるという“事実”です。




これまでも凶悪な事件というものは報道されてきたし、テレビでは必ず出る現場からのリポート、周辺住民の「恐いですねえ。早く犯人が捕まって欲しいです。」「子どもが心配で…」などのコメントは、言わばお約束のように定形化され映し出されて来ました。



私はこういうとき、

日本では殺人事件は昭和30年代~40年代より激減している(これは事実)。

それなのに報道が過熱するから、まるで殺人事件が増えているかのように見えると苦々しく感じていました。


メディアは数少ない凶悪事件を大げさに伝えることで人々の不安を煽り視聴率を上げようとしているが、人心をミスリードする行為でケシからん



このように評論家よろしく高い所から意見を吐いていたわけです。


ただ、凶悪犯罪が減っていることやメディアの報道の問題点についての私のスタンスは基本的に間違ってはいないと思っています。


しかしいかに正論を吐こうと私の態度が無責任であったことは事実です。


なぜなら今回実際にすぐ近くで通り魔殺人というショッキングな凶悪事件が起こったとき、つまり他人事でなくなった時。私はどう感じたか



恐いし不気味だし、犯人が早く捕まって欲しいし、
子どもが心配でした!!


そしてイキなり刺された被害者の人たちの無念さや恐怖が肉体感覚として迫って来ました。



今まで自分がいかに安全な場所にいて、上から目線で冷ややかに様々な事件、報道を見ていたか思い知らされたのです。全ては他人事という無責任であったわけです。


要するに私の「正論」など当事者意識に欠ける無責任なものだった


当事者となった瞬間正論はふっ飛び本音が顔を出した。そんな思いです。


想像力ないんだよ!! と言われればそれまでですが、やはり人はその場に身を置いてみなければ見えないものもあるということを今さらながら教えられた気がします。




もう1つは容疑者として逮捕された若者についてです。


自分の住んでいるマンションの前で事件を起こし、同じマンションの住人を殺害し車を盗んで逃走するが、すぐに引き返して来たのも奇妙といえば奇妙ですが、私が興味を引かれたのはそこではありません。



容疑者の若者は逮捕される前日、報道陣の前でインタビューに応じていました。


彼はすぐにバレるようなウソを交えてわりと冗舌に話していました。


彼の表情を見たとき私は既視感(ディジャヴ)に襲われたのです。


確かにこういうタイプの人に会ったことがある、という感覚です。容疑者の話し方、身ぶり、とりわけ表情を見てピンと来るものがあったのです。


教えてきた生徒たちの中にも、今まで出会ってきた知り合いの中にもこういうタイプはいたような気がする。


ひとことでいうなら、「現実が分かっていない」というタイプ


詳しく言うなら、自分の中にある「自分像」と「現実の自分」が一致していないので、そのズレというかギャップのせいで物事が思うように進まない。そういう人物ではないか。



以下は私の勝手な推測ですが、犯人像について思うところを書きます。




たとえば先生が生徒に成績のことで注意する、あるいは軽く叱ることがあります。そういうときある種のタイプの生徒は過剰に反応します。


たいていの生徒はシュンとなってうつむいたり、次ガンバリますという殊勝な態度ですが、このタイプは「分かったよ。やりゃ良いんでしょう」「やりますよ。俺だって」とか、妙にプライドをむき出しにするのです。


で、その結果はというと、たいていはダメなわけです。また注意するとさらに大げさに「やりますよ!!」となるが閉じこもってしまう。



こういう人は恐らく「自分だってやればできる。」という思いを強く持っていて、人から見下された、バカにされたということに対する反発心を利用して一時的にモチベーションを高めるタイプなのですね。


しかし続かない。なぜならこういうタイプは結果だけ見てプロセスを見ないから。


たとえばテストの点数を上げるなら、そのために勉強時間を増やすとか、もっと授業に集中するとか何らかの改善と地道なプロセスを経て「良い点」という結果に至るわけですが、このタイプは「よーし、良い点とってやる」という「やる気」だけで良い点がとれると錯覚している


気持ち→結果となっていてその間のプロセスに思い至らない。


しかもその「やる気」が反発心というマイナスのエネルギーなので持続性がない


一方「俺だってやれる」という自我肥大だけがふくらんでいく。しかし現実は思うように動かない。


そうすると周囲の人間や環境が自分に敵対しているように見えてくる。その思いが強いほど孤立感も強まりやすい。


確かかどうか分かりませんが、一部報道では彼がネットのチャットにハマっていたことが伝えられています。もしそうなら、ネットという架空の世界では理想の自分をいくらでも演じることが出来、賛同者も得られ易い。


「現実」で孤立している人もネットではつながりやすい

そういう意味では「現実」よりも、人間関係も上手く演じやすく、そこでは小さな英雄としてふるまうことができる。


結果、自我の肥大はより増幅する。


今回の事件で容疑者が多くの報道陣に囲まれてトクトクと語るその姿に、「現実」がやっと自分の方を振り向いてくれた。いっとき「現実」の中で小英雄を気どることができたという得意の気持ちを感じ取ることができます。


事件の詳細を「見た」と得意気に語る彼の表情には、自分が実際に犯した行動を英雄的に誇りたい、そんな倒錯が表れているようです。



捕まる危険を冒してでも物語りたい衝動を彼は抑えることができなかったのではないか。


それ程彼にとって「現実」への復讐欲求は強かった。そう私には思えました。



彼もまた「理想」と「現実」のギャップに苦しみ、孤立を抱えた若者の一人だったのではないか。

今回の、すぐ近くで起きた事件。私はそんな感想を思ったのでした。




今日は予定を変更して「柏通り魔事件」について思いつくままに書き連ねてしまいました。




「親は子どもの心配をするな④ まとめ編」は改めて次回に掲載します。 

悪しからず。