芸術祭ついでの高松城・屋島歴史散策 | Archive Redo Blog

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DBエンジニアのあれこれ備忘録

 

お盆休みにセトゲーのために訪れた高松・屋島ですが、そのついでに少しだけ歴史探訪もしてみました。

 

まずは、セトゲーの前に高松港のすぐそばにあり、朝早くから開いている高松城跡(玉藻公園)を散策。

 

高松城は1587年に豊臣秀吉に讃岐一国を与えられた生駒親正が築城に着手した城ですが、生駒氏のお家騒動の後、1642年に松平頼重が入城し、以後、幕末まで松平家が治めました。

 

松平頼重は、徳川家康の十一男で水戸徳川家初代の徳川頼房の長男、あの水戸黄門の光圀のお兄さんにあたります。

 

お家の事情によって弟の光圀が水戸徳川家を継ぐことになるわけですが、兄弟の関係は良好であったようで、互いの子を養子とすることによって、水戸徳川家を長男頼重の血筋に戻したそうです。

 

 

 

入口でもらった案内図にしたがって城内(園内)を散策します。


入口を入ったところは二の丸跡で、そこから本丸跡に向かいます。

 

二の丸と本丸の間には堀があり、鞘橋という橋が架かっています。

 

城が攻められた際、最後はこの橋を落として本丸に籠って抵抗を試みる算段だったようです。

 

屋根が付いたのは江戸時代中期頃なのだとか。

 

 

 

鞘橋から西を見ると、堀の向こうに琴電高松築港駅。

 

琴電は高松城跡の西面と南面に沿って走っています。

 

 

 

本丸跡には天守台跡があり、登ってみると天守の礎石が残っていました。

 

天守は三重五階で四国最大規模を誇っていたそうですが、明治17年に老朽化のため取り壊されたそうです。

 

 

 

天守台からの眺め。

 

右端にちらっと瀬戸内海と沖に浮かぶ島(女木島、男木島かな?)が見えています。

 

天守の最上階からだともっとよく見えたことでしょう。

 

 

 

高松城の堀は海とつながっており、潮の満ち引きにあわせた水位調整を行うため、水門が設けられています。

 

堀の中には海の魚が入ってくるのだとか。

 

 

 

天守はありませんが、隅櫓が2つあります。

 

三の丸跡の海側東寄りにあるのは渡櫓と水手御門を備えた月見櫓。

 

1676年頃に完成したといわれ、重要文化財に指定されています。

 

 

 

三の丸跡にある披雲閣と披雲閣庭園。

 

藩政時代にも披雲閣という建物があったそうですが、現在の披雲閣は大正6年に建てたものとのこと。

 

ですが、これも重要文化財に指定されているそうです。

 

 

 

元祖ど根性松...

 

 

 

三の丸跡から見る天守台。

 

 

 

披雲閣の玄関。

 

中も見学できるようですが、訪れるのがちょっと早すぎてまだ開いていませんでした。

 

 

 

三の丸跡の南側にある桜御門。

 

空襲で焼失したそうですが、2022年に復元したそうです。

 

 

 

三の丸跡を出て桜の馬場を通ると旭門に出ます。

 

 

 

旭門のすぐそば、城の南東角にはもう一つの隅櫓、艮櫓があります。

 

もともと北東角にあったものを移築したそうですが、これも重要文化財に指定されています。

 

 

 

艮櫓と琴電。

 

高松城跡はコンパクトながら天守を除けばお城としての要素はひととおり揃っており、水城、海城ならではの機構も見れていいお城でした。

 

今回はちょっと訪れる時間が早すぎて披雲閣や陳列館などを見れなかったので、また来てみたいと思います。

 

 

 

続いては屋島。

 

こちらもセトゲーの作品巡りの前に南嶺をぐるっと一周してみました。

 

まずは駐車場から屋島寺へ。

 

 

 

本堂よりも目を引くのは、狸を両脇に従えた神社。

 

屋島で道に迷った弘法大師空海を、蓑笠を着た老人に化けて屋島寺まで案内した蓑山大明神(屋島太三郎狸)を祀るそうです。

 

 

 

本堂。

 

屋島寺は四国八十八ヶ所霊場第八十四番札所。

 

元々は北嶺に鑑真が開創したのがはじまりで、弘法大師の時代に南嶺に移したそうです。

 

 

 

屋島寺からは時計回りに歩き、絶景展望台である獅子の霊厳へ。

 

間近に高松の町がよく見えます。

 

 

 

そして少し右に目を移すと、左に女木島、右に男木島。

 

 

 

獅子の霊厳からはさらに時計回りに進み、屋島の東側の絶景展望台、談古嶺へ。

 

ここからは源平合戦の屋島の戦いの古戦場が一望できます。

 

 

 

当時の屋島は四国とは地続きではなく独立した島だったそうなので、今見える景色は当時とは全く異なるとは思いますが、上の写真の右端あたり一帯が主戦場となったようです。

 

今回は行きませんでしたが、あのあたりに行くと、義経の弓流し、那須与一扇の的、佐藤継信の墓、菊王丸の墓などの史跡があるそうです。

 

 

 

屋島の対岸、庵治半島の先端の方を見ると小さな入江がありますが、この入江は”船隠し”と呼ばれ、平氏が船を隠し、源氏の船団が襲来した時にここから船を繰り出して挟み撃ちにしようと考えていたそうです。

 

 

 

談古嶺から南に歩き、南嶺の端の方まで行くと、屋嶋城跡の遺構があります。

 

この遺構は城門跡。

 

 

 

屋嶋城は大和朝廷が大陸からの侵攻に備えて築いた古代の山城で、日本書紀にも登場するそうなのですが、近年この城門の石積みが発見されたことによって実在が証明されたそうです。

 

 

 

最後は四国村ミウゼアムの隣にあった讃岐東照宮屋島神社。

 

初代高松藩主、松平頼重が徳川家康を祀る神廟を建立したのが始まりだそうです。

 

背後にそびえる山は屋島の南嶺の突端、冠ヶ嶽。

 

屋島は平らな山頂部が特徴的な山ですが、見る角度によってはこんな風に険しい山なんですね。

 

今回は車で山頂部まで行きましたが、また機会があれば麓から登って北嶺も回ってみたいです。