那岐山に登った後、鳥取市内に出て、鳥取城跡を散策しました。
日本百名城、50城目の訪問です。
内堀を渡る宝珠橋の脇には「ふるさと」の碑。
作曲者の岡野貞一は鳥取市の出身だそうです。
右にある操作盤のボタンを押すと、さだまさしやEXILE ATSUSHIなど、何人かの歌手が唄う「ふるさと」を選んで聴けるようです。
内堀。
内堀の向こうには鳥取県庁があります。
丸ノ内跡から見る二ノ丸跡から右膳ノ丸跡にかけての石垣と、その背後にそびえる久松山。
本丸(山上ノ丸)はあの山の頂上にあります。
二ノ丸の下、扇御殿跡には宝隆院庭園とその向こうに重要文化財の仁風閣。
明治40年に元鳥取藩主の池田家14代当主の別邸として建てられた洋風建築だそうです。
横手から見る二ノ丸跡の石垣。
白っぽさが目立ちますが、鳥取城の石垣の多くは花崗岩のようです。
二ノ丸の右奥にある天球丸の下に行くと巻石垣があります。
鳥取城跡で一番観たかったのは日本で唯一のこの巻石垣。
後ろの石垣が孕み出したのを補強する目的で築かれたものだそうですが、見事な球形をしていて芸術的です。
ただ、今の石垣は地震などの影響で傷んでいたものを平成に入ってから大改修したものらしいので、江戸時代にはここまで整然とした石垣ではなかったのではないかと思います。
観たかった巻石垣を観て満足しましたが、せっかくですから、二ノ丸にある中坂稲荷鳥居をくぐって戦国時代の山城の面影を残す山上ノ丸に向かいます。
その前に天球丸からも巻石垣を見てみます。
上から見るとまた違った印象で、下から見るよりも孕みを抑えている感が強く思えます。
天球丸という曲輪の名は、この球形の巻石垣に因んでいるのかと思っていたのですが、鳥取藩主池田長吉の姉の天球院の名から来ているそうです。
山上ノ丸への道は、石段が組まれているところが多いですが、こんなにきれいな石段ばかりではなく崩れているところもあり、けっこうな急登でした。
中ほどにある中坂稲荷。
天球丸から20分ちょっとで山上ノ丸まで登ってきました。
山上ノ丸のある久松山の標高は263m。
この標高差は岐阜城ほどではないですが、竹田城や黒井城などに近く、なかなかハードです。
今日はこの季節としてはとても暑かったので半袖Tシャツで登ってきましたが、汗だくになりました。
本丸には天守台がありました。
江戸時代、落雷で焼失するまでは天守がそびえていたそうです。
天守台からは鳥取市街や日本海が望めました。
今日はもう日暮れが近いのでこの本丸を観ただけで下りましたが、山上ノ丸にも本丸から二ノ丸、三ノ丸と曲輪が連なっており、さらにその先へと登山道を歩いていくと、かつて鳥取城を包囲した秀吉が対陣した太閤ヶ平へも行けるようです。
二ノ丸まで下りてきました。
こちらは三階櫓跡。
ここで沈みゆく夕日を見ながら小休止。
相変わらず空は霞んでいて、夕日も少しぼんやりとした感じ。
三階櫓跡の下の石垣には、鳥取城の改築時に活躍した侍女、お左近の手水鉢がはめ込まれています。
難工事であった三階櫓も、この手水鉢をはめ込んだことで無事完了したのだとか。
日没間際。
鳥取城跡には当時の建物は残っていませんが、大手登城路の復元工事が行われています。
既に大手門(中ノ御門表門)の復元は完了しており、現在はその上に渡櫓を復元しようとしているみたいです。
二ノ丸の三階櫓の復元も計画されているようですので楽しみです。
内堀の終端に立つのは、秀吉が鳥取城を攻めた際の毛利方の守将、吉川経家公の像。
二千の城兵と民が籠城する鳥取城を二万の軍勢で包囲した秀吉。
兵糧が尽き、秀吉の開城要求に応じた経家は、城兵と民の命を救いながらも、自らは責を負って自刃したそうで、その潔い最期は武人の鑑として敬われているそうです。
翌朝は鳥取砂丘...ではなく、鳥取砂丘の近くにあるらっきょう畑を観に行きました。
広大な砂地に広がるらっきょう畑では10月下旬から11月上旬にかけてらっきょうの花が見頃になるとのこと。
今年は少し遅いのかな?
そこそこ咲いているという感じでしたが、一面紫に染まるさまはとてもきれいです。
畑によって差があるようで、ほんの一角だけすごくたくさん咲いていましたが、朝は日陰なのが少し残念。
らっきょうの花はこんな花。
花が咲くのは秋ですが、収穫期は翌年の6月頃。
一冬越して立派な砂丘らっきょうに育つわけですね。
今回はパスしましたが、砂丘にも長いこと行っていない気がするので、またゆっくりと訪れてみたいです。