10月9日、建築塾第23回目です。
設計演習コースでは、第3課題「自然を受信する庭」のエスキスが進んでいます
そんな中、建築塾に科学者が現れました
不気味な液体を手にする、清水君。
机の上には、何やら怪しい薬品が・・・
何か実験でも始まるのでしょうか
これは、一体何なのでしょう
これは清水君が考え出した装置なのですが、簡単にご説明致しますと、清水君は受信する自然として「浮力と重力」という、人間の目には見えない現象を、どうにか可視化できないかとこの装置を考えてきました
その方法として、上の写真にあるベンジルアルコールに色を付けたものと、水を混ぜてみました。 すると、水とベンジルアルコールが混ざり合うことなく、不思議な動きを見せるのです
前田塾長も、この液体に興味津々です

これを熱すると、下に溜まっていた液体が浮き上がり、さらに不思議な動きを見せます
写真では伝わりにくいので、動画をご覧ください
動画
冷えると、浮き上がった液体が沈んでいき、また違った様相を見せます。
常に予想できない動きをするので、見ていても飽きません
これを見ていると、
「言葉では説明できないもの」
「言葉を越えた何か」 に、人は引き付けられるのだと感じます。
頭で理解するのではなく、体の底から湧きあがってくる何か・・・
文字通り、「言葉にできない」ことなので、ここで説明するのも難しいのですが・・・
世の中には、そういった言葉では割り切れないものが沢山あるのです
そこで前田塾長から、下記の言葉が紹介されました。
哲学者、ヴィトゲンシュタインの言葉
"The limits of my language mean the limits of my world."
(私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する)
映画「ヴィトゲンシュタイン」より
「世界を一つの論理にしようとした若者がいた
頭のいい彼はその夢を実現し,
一歩下がって出来栄えを見た
それは美しかった
不完全も不確実なものもない世界
地平線まで続くきらめく氷原
若者は自分の世界を探検することにした.
踏み出した彼は仰向けに倒れた 摩擦を忘れていたのだ
氷はつるつるで汚れもなかった
だから歩けない若者はそこに座り込んで涙にくれた
でも年をとるにつれ彼には分かってきた
ざらざらは欠点ではなくて,世界を動かすものだと
彼は踊りたくなった」
とても良い言葉ですね
「言葉にできるもの」と「言葉にできないもの」、つまり言葉を変えると、
「言語化」 と 「非言語化」
「自律」 と 「他律」
「抽象」 と 「具象」
前田は「最近の学生は言語化できるものに偏り過ぎている」と言います。
何かを創造する時に、全てを言葉だけで説明していては、とても狭い範囲(言葉で説明できる世界)でしか、物事を捉える事が出来ません
だからといって、どちらか一方に偏ってはいけません
言葉では説明できないものを創造しながらも、同時に最低限のこのとは、言葉で説明できなければならないのです
そうでないと、自分の作品を人に伝えることは出来ませんし、誰にも理解してもらえません
では、なぜ学生たちは言語化できるものに頼ってしまうのでしょう
それは、戦後生まれの私たちが西洋の教育を受けてきたことに、原因の一つがあげられます。
西洋では、「私」と「世界」を別々のもの(個物)として考えます。
つまり、「男」と「女」、「有」と「無」、「強い」と「弱い」、「人工」と「自然」、「言語」と「非言語」・・・
これらを別々のものとして考えるのが西洋の考えです
一方、東洋では、これらをいっさい区別せず、「私」も「世界」も同じ(一如)として考えます。
背反する二項対立の物事を、同じであると考えるのは、どこか矛盾を感じますよね
しかし、それは西洋の論理からみての矛盾で、東洋の論理ではその矛盾を良しとし、矛盾こそが世界のありのままであると考えるのです
私たちは、日本人=東洋人ですから、
「矛盾こそが世界のありのままである」という考えを持っているはずなのですが、すんなりとは、理解できません
教育によって西洋の論理がこびり付いてしまったのでしょう。
私たちは、どんな些細な事に当たる時にも、日本人としての誇りを意識し続けなければなりません
東洋思想については、残りのブログでもう少し詳しく紹介したいと思います
今週はこれで終わりです。
それでは、次回もお楽しみに♪
前田紀貞アトリエ 尾茂田太