先日、不動産の仕事をしている中で、ちょっと興味深い話がありました。
ある賃貸物件で、以前に家賃を月額1,000円値上げすることで貸主と借主が合意し、
賃料改定の合意書まで取り交わしていたそうです。
ところが、その後も借主から振り込まれてくるのは値上げ前の家賃。
当然、貸主側としては、
「毎月1,000円不足していますよ」
ということになります。
すると借主側から、
「家賃の値上げについて6か月前に通知されていないので、値上げは無効ではないか」
という趣旨の話が出てきたそうです。
さて、この「6か月前」というルール。
本当にあるのでしょうか?
「6か月前」という数字は確かに存在する
不動産の賃貸借契約では「6か月」という数字をよく見ます。
例えば重要事項説明書や賃貸借契約書には、
借主からの解約:1か月前
貸主からの解約:6か月前
などと記載されていることがあります。
また、借地借家法第26条では、期間の定めのある普通借家について、
貸主が更新を拒絶する場合などに「期間満了の1年前から6か月前まで」という規定があります。
さらに、期間の定めのない建物賃貸借について、貸主から解約を申し入れた場合には、
借地借家法第27条に「解約申入れの日から6か月」という規定があります。
ただし、ここで大切なのは、
「6か月前に言えば、大家は自由に契約を終了できる」
という意味ではないことです。
貸主からの更新拒絶や解約申入れには、借地借家法第28条の正当事由も重要になります。
つまり、「6か月」という期間の問題と、「そもそも貸主から契約を終了させるだけの
正当な理由があるのか」という問題は別物
なのです。
ところが、重要事項説明書などには「貸主から6か月前」と書かれていても、
この正当事由について詳しく説明されていないケースもあります。
そのため、
「大家さんは6か月前に言えば何でもできる」
というイメージを持っている方がいても不思議ではありません。
実際、貸主から「6か月後に契約を終了したい」と言われ、
「契約書にも6か月前と書いてあるから仕方ない」
と思って新しい部屋を探したという方もいます。
では「家賃の値上げも6か月前」なのか?
ここが今回の本題です。
家賃の増減について定めているのは、主に借地借家法第32条です。
この条文では、
・土地や建物に対する税金などの負担が増減した
・土地や建物の価格や経済事情が変化した
・近隣の同種物件の賃料と比較して現在の家賃が不相当になった
などの場合に、貸主・借主の双方から賃料の増減を請求できるとされています。
ここには、
「家賃を値上げする場合は必ず6か月前までに通知しなければならない」
という規定はありません。
今回、なぜ借主が「6か月前」と主張したのか、本当の理由は本人に聞かなければ分かりません。
ただ、不動産契約には先ほど説明したように「6か月」という数字が何度も登場するため、
それらと家賃値上げのルールが混同されている可能性はあるのかもしれません。
ただし、大家が好きな金額に上げられるわけでもない
ここは誤解してはいけません。
「6か月前ルールがない」からといって、
「来月から家賃を1万円上げます!」
と大家が通知すれば、その金額で自動的に確定するわけではありません。
貸主が値上げを希望し、借主が納得できなければ、まずは話し合いです。
最近では自治体も家賃値上げについて注意喚起を行っています。
川崎市も、家賃値上げを求められた場合には、値上げの理由や根拠を確認し、
貸主と話し合うことを案内しています。
一方で、固定資産税や維持管理費、周辺相場などから値上げに合理的な理由がある場合には、
値上げもやむを得ない場合があることにも触れています。
つまり、
「大家が言ったから値上げ」でもない。
「借主が嫌だと言ったから永久に据え置き」でもない。
ということです。
今回は「合意書まで交わしていた」
そして今回の事例には、もう一つ大きなポイントがあります。
単に、「大家が1,000円値上げしたいと言った」
という段階ではありません。
貸主と借主が1,000円の増額について合意し、合意書まで取り交わしていた
ということです。
最近、家賃値上げについて注意喚起を行っている中野区も、一度値上げに同意して
変更契約や変更合意などを締結すると、後からその同意を取り消すことは難しくなる
旨を案内しています。
だからこそ、家賃の値上げを求められた借主側も、納得できないのであれば、
「とりあえずサインしてから考えよう」
ではなく、サインする前にきちんと話し合うことが大切です。
では、大家はどうやって家賃を上げればいい?
法律論とは別に、賃貸管理の実務として考えてみます。
私なら、いきなり弁護士から内容証明を送るような方法はおすすめしません。
まずは、
「賃料改定のお願い」
という形で、
・現在の賃料
・希望する新賃料
・改定希望時期
・値上げをお願いする理由
などを書面で丁寧に説明します。
例えば、
「固定資産税や建物維持管理費、修繕費等が上昇していることに加え、
近隣同種物件の賃料水準等も踏まえ……」
といった具体的な説明です。
借主から、
「3,000円は厳しいけれど1,500円なら」
という回答があれば、そこで話し合ってもいい。
双方が納得できれば賃料改定合意書を取り交わす。
これが一番きれいな解決方法だと思います。
それでも借主が一切認めなかったら?
話し合いがまとまらず、貸主側も増額を諦めないのであれば、次の段階として、
「賃料増額請求通知書」
によって、借地借家法第32条に基づく正式な増額請求を行う方法があります。
それでも借主が従来の家賃しか支払わず、協議もまとまらない場合には、賃料増額調停、
さらに必要に応じて訴訟という手続があります。
実際、賃料増額が調停や裁判で認められた事例もあります。
つまり、
「借主が拒否すれば永久に家賃を上げられない」
というわけでもありません。
ただし――。
ここからが現実的な問題です。
月3,000円のために、どこまで争う?
例えば、
月額85,000円 → 88,000円
にしたいとします。
増収額は月3,000円。
年間でも36,000円です。
ところが、本格的に争えば不動産鑑定士による鑑定が必要になることもあり、
さらに弁護士費用などが発生する可能性もあります。
仮に数十万円を使って月3,000円を上げるのであれば、その費用を回収するだけでも何年もかかります。
そう考えると、
「法律上できるか」と「経営としてやる意味があるか」は別問題
なのです。
月数千円のために最後まで争うとなると、途中から金銭というより、
「ここまで来たら白黒つけたい」
という意地の問題になってしまうケースもあるのかもしれません。
同じマンションで1部屋だけ安かったら?
では、こんなケースならどうでしょう。
10室あるマンションで、間取りや広さなどの条件がほぼ同じ。
9室は家賃10万円。ところが1室だけ8万円。
しかも、その部屋だけ15年間家賃を据え置いている。
大家さんからすれば、
「さすがに安すぎるでしょう」と言いたくなるでしょう。
同じ建物の他の部屋や近隣同種物件の賃料は、賃料が適正かどうかを考える材料になります。
ただし、「現在、新しく募集すれば10万円で貸せる」ことと、
「15年間住んでいる既存入居者の適正賃料が10万円である」ことは必ずしも同じではありません。
ここに、「新規賃料」と「継続賃料」の違いがあります。
裁判や鑑定では、現在の募集相場だけではなく、従前の賃料、これまでの契約経緯、
経済事情、税負担など様々な事情から適正な継続賃料を考えることになります。
逆に「古くなったから家賃を下げて」という借主もいる
面白いことに、現場では逆の相談もあります。
長期間住んでいる借主から、
「これだけ長く住んで建物も設備も古くなったんだから、むしろ家賃を下げてもらえませんか?」
と言われるケースです。
借主からすれば、
「入居したときは築浅だった。でも今では築20年、25年。設備だって古くなった。
それなのに同じ家賃なの?」という感覚でしょう。
大家さんからすれば、
「その間に固定資産税も修繕費も保険料も上がっている。給湯器やエアコンが壊れれば
こちらで交換している。それなのに値下げ?」となります。
実は借地借家法第32条は、大家のためだけの制度ではありません。
一定の条件を満たせば、借主側から賃料の減額を請求することもできます。
つまり、
大家「世の中の物価も家賃も上がった。値上げしたい」
借主「建物も設備も古くなった。値下げしてほしい」
どちらの主張にも、それぞれ事情があるのです。
「家賃過去最高!」というニュースを見た大家さん
最近はテレビやネットでも、
「東京のマンション賃料が過去最高」
といったニュースを目にする機会が増えました。
すると大家さんから、
「テレビで家賃が上がってるって言ってたけど、うちも上げられるんでしょ?」
と相談されることがあります。
気持ちは分かります。
長年家賃を据え置いていた大家さんが、
「うちだけ安すぎるのでは?」と考えるきっかけにもなるでしょう。
ただ、ニュースなどで報じられる賃料データには、新規募集賃料を基にしたものもあります。
新しく募集する部屋の市場賃料と、現在入居している人の継続賃料は同じものではありません。
報道が家賃上昇の直接的な原因だとは思いません。
ただ、
「長年据え置いていた家賃を見直してみよう」
と大家さんが考える一つのきっかけになっている面はあるのかもしれません。
そして、管理会社の本音
最後に、実際に賃貸管理に携わっている立場から少し本音を書きます。
滞納もなく、トラブルもなく、長期間きちんと住んでいただいている入居者であれば、
「できれば退去するまでは今の家賃のままで……」
と思うこともあります。
もちろん、明らかに周辺相場とかけ離れて安くなっているのであれば、
見直しを検討する必要はあるでしょう。
でも、月3,000円値上げすれば年間36,000円。
それによって優良な入居者が退去してしまい、1か月でも空室になれば、
値上げによる増収が簡単に吹き飛んでしまうこともあります。
そして値上げで揉めれば、
大家さんから相談を受け、
入居者へ説明し、
入居者から反論を受け、
また大家さんへ報告し、
双方の間に入って調整する。
管理会社の仕事は確実に増えます(笑)。
だからこそ、
「値上げできるか?」だけではなく、「本当に値上げした方が大家さんにとって得なのか?」
まで考えることが大切だと思っています。
家賃に「絶対の正解」はない
今回のきっかけは、たった月1,000円の家賃値上げでした。
しかし掘り下げてみると、
「6か月前ルールとは何なのか?」
「大家は自由に家賃を上げられるのか?」
「借主が拒否すればどうなる?」
「合意書を交わした後なら?」
「調停や裁判になったら?」
「そもそも数千円のために争う意味はあるのか?」
と、非常に奥の深い問題です。
大家にも事情があります。
借主にも事情があります。
そして、その間に入る管理会社にも事情があります。
法律はもちろん重要です。
でも実際の賃貸管理では、法律で白黒をつけるところまで行く前に、
「お互い、どこなら納得できますか?」
という着地点を探すことの方が、ずっと大切なのかもしれません。
家賃は単なる数字ではなく、長く続く貸主と借主の関係の中で成り立っているもの。
今回の「たった1,000円」の話から、改めてそんなことを考えさせられました。
