炎輝は雪月を連れ暗くなった森を抜ける。
『本当は飛んで帰りたいけど。お前…高い所無理だからな。。にしても、姉上…大丈夫かな』
張り出した木の根を飛び越えながらまるで昼間に野原を走るが如く闇に浸かった森を走り抜けた。
『おかえり炎輝』
満面の笑みで出迎える母春花に、流風の父、前秦掌門に言われた妄語を伝える事が出来なかった。
『ああ。ただいま…父上は?』
『今日は千月洞に薬を取りに』
『なんだ、結局洞主じゃなくても千月洞の秋月じゃないか』
『え…どうしたの炎輝』
『…疲れたからもう今日は寝る』
『?』
そう言って邸を出て行った。
『え?外で寝るの?最近難しい年頃?…いや、ずっと難しい人もいるもんね。桃雨はお父様みたいにならないでね?』
『?とうたま大好き』
『そうよね、大好きね母様も大好き…一緒ね桃雨』
桃雨と笑顔を交わす
『本当か?信じて良いかな?』
音もなく現れた秋月に驚く春花は拍子で僅かに乱れた髪をすぐさま整えた
『わ!びっくりしたおかえりなさい』
『妻は照れ屋なのか本心を誤魔化す…桃雨はそんな妻を貰うなよ夫は寂しい思いをする』
『桃雨にはそんな話聞かせないで!信じていいし。好きとか…そんなしょっちゅう言えないわ』
『そう言えば昔、その口で…心とは逆に兄を嫌いだと言った…覚えているか?』
『あったかしら?そんな事』
ムッとする秋月は春花を壁際へ押しやる
『ち、ちょっと!』
『百花刧の毒を解毒したのは些か残念だ。妹の心が見えぬからな。心を取り出して見る事ができないなら言葉にしてこの兄に伝えよ』
壁を背に見上げる春花の唇を奪った
『んっっ!っ……ん…は、、ちょっと待って!』
『ん?』
『桃雨が見てるでしょ!今はダメ』
『???』
『もう!わざと理解できないフリするのやめて!』
『わかった。「今はダメ」春花の言う事を聞く。』
『そ、そそそう』
『なら続きは後にしよう。約束だぞ?』
秋月は不敵な笑みを見せ桃雨を抱き上げた。
『……やられた』
春花と秋月の心はあの激動の日々から僅かなズレもない。『春花秋月いつ終わらん』
心は永劫共にある。
それから10日ばかりが経ったある日春花の元に蕭白から娘雪蘭の状況を知らせる手紙が届き、洞主の疲れを癒す為に桃雨に会いに訪れた葉顔にその話をした。
『それで、蕭白は何と?』
『力を制御できるようになったから一度結婚の話もしたいし、雪蘭にも会いに来て欲しいと…』
『いよいよですね…秋月様は?』
顔を上げる葉顔は春花の表情で察知した
『……当然荒れていますね』
『行かないって言うの…身体は千月洞の薬湯で治すから心配ないと…』
『……』
『恋煩いは薬湯では治らないわ…』
『え?』
『あ、こちらの話。そうだ、葉顔さん…私を鳳鳴山荘に送ってくれない?』
『今からですか?』
『そう。今から』
『ですが、勝手に邸を出ると秋月様が…』
『だからって聞いた所でダメなんだし、途端に不機嫌になるだけよ。どちらにせよ怒るんだから、それなら私だってしたいようにするわ』
『……はぁ…相変わらずですね…』
『振り回されるのはまっぴらよ』
振り回されるのはいつも秋月の方だとは思っても口に出せなかった葉顔は仕方なく春花の要望通りに鳳鳴山荘へ春花を送った。
時はそれより少し前、鳳鳴山荘では雪蘭の様子に邸の皆が困惑していた。
『雪蘭様…部屋から出なくなりもう何日?確か力が制御できるようになった日からじゃない?もしかして結婚したくないのかも』
『親子ほど歳が離れてるのよ?それに…白盟主は母親の春花様を深く愛されていたそうだし…躊躇されるのも分かるわ…食事も召し上がらないなんてよっぽどの事よ』
配膳の女達の噂話を耳にした緑袖は献立に不備はないか確認しながら女達に注意する。
『つまらぬ噂をするでない』
『あ、緑袖様…すみません。ですがもう何日も食事をされていないので…』
『お前達の心配も分かるが李漁どのの薬湯もある。心配して良からぬ噂を立てるでない』
『はい。申し訳ありません』
緑袖は深い溜息をついた。思えば母春花も、あの千月洞の上官秋月の元から戻った後、食事も飲み物すら何も喉を通らぬ事があった。
『あれは確か…蕭白盟主が秋月と春花様がこっそり会っていたのを知って秦流風殿と竹林に行った時だったわ…その後春花様は衰弱して……まさか雪蘭様は誰かに想いを…』
口に出さずに留めた。
そして白の元には早朝から清流が大声を上げていた。清流の荒ぶりを邸の者が秦掌門邸に知らせ流風と冷凝、稽古場に来ていた風彩彩もやって来る。
『白盟主!私は雪蘭の…いえ、雪蘭様の護衛長です。何故その任を解かれるのでしょうか?そもそも志願したのも彼女を守る為です。納得できません』
『清流!白盟主に失礼だぞ。なんだその物言いは』
『母上は黙っていてください…私は今白盟主と話をしています』
『……』
『力を制御出来る様になったと聞きました。それに、もう何日も食事も召し上がらないとか…今まで雪蘭にはそんな事一度もありませんでした…何かあったのではないですか?目通りも叶わぬとは…』
『雪蘭は今…誰にも会いたくないのだ…特に清流。お前には』
『なっ…な、何故ですか?』
『分からないのか?清流』
背後から聞こえる声に一堂は振り向いた
『炎輝?』
『この暫くあまり姉上が食事もできず衰弱しているのも知らなかったんだろ?』
『…炎輝どうしたんだ?清流にそんな…』
冷凝は炎輝が尊敬していた筈の清流に敵意を剥き出している事に気付く。
『冷先生。姉上は秦掌門のじいさんに邪悪な娘と呼ばれたよ。』
『なんと?まさか父にか?』
驚いたのは秦流風だった。
『姉上は清流が大怪我をしたと言う話を聞いて心配の余り邸を抜け出した…治癒するつもりだった…裸足のまま駆け出そうとするから、雪月と一緒に掌門の邸に行ったんだ…そしたら風先生の娘と見合いの最中だと言って。俺を誰かもわからないまま、父上や姉上について、教えてくれたよ』
『……』
『姉上と孫息子が仲良すぎて心配していたが、白盟主のおかげで心配はなくなった。やはり平和を考えて下さる荘主だって…あんな邪悪な娘を嫁にする荘主が気の毒だってさ』
『なんて事を…』
『俺はな、冷先生や白盟主にも言いたい。秋月の娘が邪悪なら、長年の友を長生果欲しさに殺した男の娘はどうなんだ?愛を囁いて千月洞の宝を手に入れたお陰で奥義が使える様になったからと宿敵の千月洞を討つのは卑怯じゃないのか?世のため人のために命を救ってきた医聖を長生果欲しさに殺した男の娘は邪悪じゃないのか?』
『炎輝…なぜそれを…』
『千月洞には沢山の書物がある。これまでの歴史を遡れる。葉顔先生は俺たちを自由に書庫へ入らせてくれたからな…知っていた。だけど鳳鳴山荘のみんなの事も好きだった…だから、過去に何があっても今、それぞれの思いやりで仲良くできてるんだと…』
『炎輝…』
『父上1人が悪者だったのか?冷先生どうなんですか?』
『そ、それは…』
『秦掌門のじーさんの妄語は許されるのか?正義を持って生きる郷の割にはその内心には邪気がある。だからこそ他人を貶める発言をするんじゃないのか?』
『炎輝…そなたの言う通りだ…我々は皆一様に罪深い…』
『姉上が傷付いている…誰よりも家族を思って、仲間や先生達を思って力の暴走を怖がっていた姉上が誰よりも傷付いている!父上は大切な物は1つだという。自分の何をおいても大切な宝を守れと言う…だから母上を手に入れた。その選択をしなかった白盟主には手に入らなかった…そうではないですか?正邪は並び立たぬと荘主や父上はいつも言います。しかし私は思うのです。正邪はそのどちらもが人の心にある。誰の心にもある事じゃないのですか?』
『…炎輝!言い過ぎです』
『姉上…』
『雪蘭!』
現れた雪蘭はあまりにやつれ、力なく立っていた。1人で立つ事も容易ではなく、戸に体を僅かに預けるようにしている。
『せ…雪蘭…っ』
清流が思わず駆け寄る。
『清流っ!盟主様に失礼だぞっ』
母の声も聞こえぬ清流は雪蘭の手を取ろうとした。細く白い手はそれを払い除ける。
『雪蘭?』
『清流、これまで生まれてからずっと…助けてくれて…傍に…いて…くれてありがとう…でももう私は大丈夫』
『…雪?』
清流の動揺を尻目に雪蘭は蕭白を目を向けた。
『白荘主には我儘を聞いてこれまで置いて頂いて感謝いたします…私は…私が此処にいる事でこちらの皆様の気持ちが良くない事もあるのだと理解できました。結婚に関しては白荘主のお考えを聞かせて下さい。私はそれに従います。過去は変えられませんので父が皆様にした事は…』
『雪蘭、そこまでで良い』
『白荘主…』
蕭白は雪蘭の手を取る。雪蘭はそれを払いのける事をしなかった。清流は胸に嫉妬の痛みが走る。
『大事ないか?こんなに痩せ細って…辛かったな』
白の言葉に雪蘭の目から氷の粒のように輝く涙が幾つもこぼれ落ちた。
『…っ……ごめ…なさい。私がここにい…いる事で…ご迷惑が…江湖の平和が…』
『馬鹿を申せ。雪蘭…そなたは私にとって大切な人だ…迷惑などかかっておらぬから心配するな』
『…そうだぞ…雪蘭…炎輝…お前達の事は大切な友の子だ。我々の子と同じに見ているぞ…』
秦流風の言葉に冷凝は涙する
『お前達をそんなに傷付けて……雪蘭。申し訳なかった…炎輝。お前の言う通りだ…私は長年の友を私欲の為に殺した冷影の娘だ。』
『それなら私だって善人の医聖を殺した風千衛の娘…しかも…傅楼を間違って恨んでいた…』
『冷先生、風先生…』
『流風!お前の父はいつも口が過ぎる。それに、簡単に嘘をつくからそうなったんだ…』
『嘘?嘘ってなんだ?冷先生』
炎輝の問いに皆は口を閉ざした。
『なぁ、なんだよ嘘って』
『………見合いなんてしてない…』
清流は雪蘭を見つめ呟いた。
『え?』
『白荘主と清流が無事に鳳鳴山荘に帰った日、我々が集められた…その事は我が秦家にとっては大事になる。父の耳に入ると面倒な事になると思ってな…私が嘘をついたのだ…しかし結果的にそのせいで雪蘭がこんな思いをするなど…思いもせず…申し訳なかった』
流風は雪蘭に深く頭を下げた
『どう言う事だ?』
『炎輝、それはいずれ分かる。私は秋月殿と春花殿に文を書きそなたに託す。必ず渡して欲しい』
『……はい。わかりました』
『清流、雪蘭を部屋に連れて行ってくれ』
『荘主!それは…私は…清流にはもう』
『荘主の私の言う事だ。例え雪蘭でもわきまえよ』
『は、はい…』
『清流…頼むぞ。では炎輝、こちらへ』
『あの…白荘主。冷先生、風先生…流風のおじさん…ごめんなさい…俺』
『炎輝。お前は姉想いの優しい子だ。お前の言葉には考えさせられたよ』
『荘主』
冷凝と風彩彩は炎輝を抱きしめ泣いた
『馬鹿め、お前達は我らの子同然だ』
『でも…俺たち千月洞の…』
『あやつは…ああ見えて一途に春花殿だけ追いかけていた。ただ、手段を選ばぬ所が愚かだっただけだ…敵に囲まれているのに命をかけて春花殿を救おうとするほど…一途だ。性格は嫌味だが尊敬もしているよ』
冷凝の言葉に炎輝は張り詰めていた気持ちの糸が切れ涙した。
『さぁ、春花殿に手紙を持って帰るんだろ?涙を拭け。武人が簡単に涙するな』
『冷凝、泣きながら言うのは説得力ないわ』
『彩彩、言うな』
3人は笑った。
清流は雪蘭の手を取り歩いていた。
『清流…もう此処までで良いわ』
『……良くない』
『……でも』
『雪蘭、お前…もし荘主が結婚すると言ったら本当にするのか?』
『………』
池の周りを歩きながら立ち止まる2人
『荘主と結婚するな…して欲しくない』
『え?』
『雪蘭を大切にしたい…お前を笑わせるのも泣かせるのも全部俺がしたい』
『何それ…大切にしたいのに泣かせるの?』
『そうだ』
『でもお見合いは…』
『してない』
『じゃあなんで…秦掌門の叔父様は怪我をしたって言ってて…』
『怪我してた…そっちが本当』
『じゃあ、本当に動けなかったの?』
『…ああ、恥ずかしいけど…大体風先生の娘ってまだ13だぞ?考えたらわかるだろ?お前がいるのに見合いとかするか?』
『……』
『それにな、じいさんの言う事を間に受けるな。昔からそうだったろ?面倒くさいから本当にみんな相手にしてないんだ』
『………胸が…』
『どうした?痛いのか?』
『うん…痛くて…清流が誰かと一緒に生きるなんて嫌だって思って…今は違うってわかって痛い…良かったって安心して痛いの。何故?』
清流を見上げ問う雪蘭はどうしようもなく無性に清流の胸を掻き乱す。
『それ…って…』
『でも何故かまでは分からな…っっんっ…清…っ』
清流は雪蘭の唇を塞いだ。
抵抗も出来ない程強い力で雪蘭を捕縛する清流。
柔らかな雪蘭の唇は甘く、清流自身の心の乱れを鎮めるどころか余計に振り回すばかりであった。
雪蘭は抵抗する気力も起きない程清流の腕の中は心地よくその身を預ける他なかった。
『………』
雪蘭は静かに瞼を閉じると清流から流れ込む深い愛情を感じ取り、知らぬ間に溢れる様に涙が溢れた。
『ど、どうした?無理やり…したから泣いてるのか?嫌だったか?』
『ううん。私も同じ気持ちだって…分かっただけ』
『雪蘭……』
『同じ…気持ちだった…私…』
初めて知る己の本心である。
『白荘主に話をする…良いな?』
『…でも』
『もし、だめでも俺には雪蘭しかいないし、お前にも俺しかいない…白荘主と結婚するのは許さない。絶対にだ』
『………清流…ぐるじ…』
『あ、つい強く抱き締めすぎた…大丈夫か?』
背を撫でる
『うん』
『さっき、俺の手払いのけて…荘主の手は払いのけなかった…』
『え?』
『あれ、むかついた』
『うん、ごめん……。誰か他の人のものになると思って…』
『それ、嫉妬ってやつか?』
『分からないけど、あ、でも荘主に話すのはもう少し待って。私からちゃんと気持ちを伝えるから』
『………なんで』
『私と荘主の問題だもの…』
池に咲いた蓮の花が甘い香りを仄かに漂わせ風に揺れていた。
その後10完へ続く