雪蘭は蕭白の呼び出しよりも清流を心配した。
邸の自室に戻るも蕭白の元へ行く気が起きない。
雪蘭は炎輝と共にいる雪月に合図を送った。
互いに赤子の時分に出会った。親からはぐれたのかそれとも死に別れたか何処からともなく現れて雪蘭を抱く春花の周りをついてきた。無碍に引き離す事もできず、人里離れた寂しい場所に役に立つ事もあると秋月が邸に入れる事を許可した。
銀の毛に覆われた雪月は主の合図に気付くとピクリと耳を立てた。
炎輝がその異変に気付く。
『ん?どうした?雪月。もう帰るぞ…今日は疲れたからな!それにしても父上には参ったよ。俺を逆さ吊りにするなんて…姉上も姉上でさ、力が半端なくて…え?雪月?ちょ、、待て!何処行くんだ帰るんだって!そっちはだめだっ…蕭白荘主の邸だぞ』
その言葉に雪月は立ち止まると意味ありげに見上げた。そして微かに喉を鳴らす。
『あ……まさか姉上が呼んだのか?…』
炎輝は仕方なく姉の為に新たに造られた部屋を尋ねた。
『姉上!姉上』
部屋の前で戸を叩くと直ぐ様開いた。
『炎輝!来てくれた!雪月…ありがとう。良い子ね』
雪月の頭を撫でると雪月は満足そうに雪蘭の足元に寝そべる。
先程の荒ぶる神を宿した形相の姉では無かった。
凛とした中に温かで柔らかな佇まいの姿に炎輝は息を呑む。
暴走中で気付かなかったが、暫く会わない内に父譲りの妖艶さに更に拍車をかけている。
確かに道場の仲間たちが皆雪月が来るとそわそわと落ち着かない。
更には雪月と清流が会話を始めると誰も近付かず少し離れた場所から皆眺めている。気さくに話しかけろと促すも皆それは出来ぬと断る始末。炎輝にしてみれば不可解な事でしかなかったが、こうして暫くぶりに姉を見ると確かに普通の人間ではなく浮世離れした風情がある。
長く艶やかな黒髪に陶器の様に滑らかな白い肌。稽古の際は髪を束ね、うなじに髪が垂れるのを一同呆然と見惚れ手が止まる。
いちいち冷先生に叱られるのを訝しんでいたが、確かに皆が注目してしまうのも無理もない、姉は紛れもなく絶対的な支配力を持つ父に似た禍々しい迄の美しさを持ち、その潜在的な魅力に人々は心酔し魅了されるのかと妙に納得した。
『炎輝…お願いがあるんだけど…』
『な、なななんだよ。雪月使って呼び出しか?』
『ねえ、炎輝。清流がどんな様子か見てきて。身体がもしかして動かないなら私が治癒しないと…』
『姉上……さっき流風のおじさんが言ってたじゃないか…ほっとけって。それから、もう白盟主の所にも行ったのか?呼び出されたんじゃ無かったの?逆さ吊りでも聞いてたからな』
『清流が気になってそれどころじゃないから…無事か分かったら白盟主の所に行くから!早く』
弟には無茶を言う。
『はぁぁ。姉上も清流も結局いつも優先は誰を差し置いてもお互いなんだ。』
『え?』
『は?何を今更驚いてんの?姉上はいつもそう。それで清流もいつも姉上が一番』
『……そうだった?気付かなかった…』
炎輝の指摘に今更ながら気付かされた。
姉の我儘に仕方なく炎輝は出て行った。
雪月は雪蘭から離れず足元で休んでいた。
『ねえ、雪月…私は白盟主と結婚するってそう思ったらなんだか胸がざわざわするんだけど…何だと思う?』
銀の狼は深い色の瞳を雪蘭に向け鼻先を擦り付けた。
『…な、何?雪月には何か分かるの?』
雪月は見向きもせずただ雪蘭の傍にいた。
暫くして炎輝が戻る。
『炎輝!どうだった?』
『姉上。。それがさ秦掌門邸には戻ってないんだ…清流が何処にいるか誰もわからないみたいで…念の為に李漁さんの診療所を覗いたけど誰も居なかった。風先生も留守だった…』
『ねえ、みんなが揃って居ないって変じゃない?何か大変な事になってるんじゃ…大怪我してるんじゃないの…』
『………』
可能性は無いとは言い切れないが雪蘭程切迫した不安はなかった。
『私ちょっと見てくる』
雪蘭はそのまま邸を出て行ってしまった。雪月も後を追う。
『え?ちょっと…は?姉上?なんで雪月まで?』
その後を炎輝も追った。
雪蘭は清流の身に何かが起きたのではないかという不安で胸が潰れそうになる。
秦掌門邸の前はいつもと変わらず、ただやけに静かで耳を澄ませても何の音もない。違和感しかなかった。不安に拍車がかかる。
通りの向こうから人影がこちらに向かってくる。
あの老人には見覚えがある。
『流風おじさんの父上だ!清流のお祖父様だよ。姉上、仮にも荘主の婚約者が夜に荘主の許可も得ず外出など許されない。鳳鳴山荘には頭の硬い人間しかいないから。俺が探るから後ろに隠れて。時々道場で挨拶するから覚えてくれているやもしれないし』
『おや、そこの子…見覚えがあるな…』
『はい、冷先生の道場に通っております。あの…今日は清流は?帰宅したと聞きましたが留守で…清流は無事ですか?』
『無事とはなんだね?何かあったみたいな言い方だが?私はちょっと祝いの品を忘れて取りに…家宝だから誰にも触らせられぬからな』
『祝い?清流は大怪我をしているわけではないんですか?』
『何を言っておる…今日は清流の見合いの席だ。風掌門もあの世で喜んでおるだろう。』
『!?』
雪蘭は胸に氷の刃が刺さったように冷たく凍りついた。
『え…?見合い?』
『ああ、そうだ。蕭白盟主の護衛をしっかり務め、盗賊も掃討した。これまでの努力を認められたのだ。話を聞いた風彩彩の娘からの希望でな…断る理由もない。彩彩の父、風千衛は冷凝の父冷影に殺されたが、それもこれもあの上官秋月が裏で操っていたのだろう。
元々は掌門同士良き友だったのだ…互いの因縁を戻すにも良い形ではないかな…一時期は秋月の娘との仲を訝しんでいたが、正直ホッと胸を撫で下ろした。白盟主はやはり春花殿を忘れられぬようだ。その娘を娶るなど…気が知れぬよ。だがそのお陰で我が孫息子は邪悪な娘から身を守られた…盟主は身を犠牲にし江湖の平和を一番に考えておられるのだな』
『………』
『………』
『どうした?清流に用があったのかな?伝言があれば私が伝えるが…ん?後ろにいるのは…』
『ご無沙汰しております。清流のお祖父様』
『お、おや…もしかして上官秋月の…雪蘭どのだったか?おー!これはこれは随分と美しく御成だ…蕭白盟主との結婚も秒読みとか?おめでとうございます』
『ありがとうございます。これは弟の炎輝でございます。清流には本日はおめでとうございますと……お伝え…下さい』
深々と頭を下げた。前秦掌門は狼狽する。上官秋月の娘雪蘭本人を前に妄語したのだ。
『……姉上…』
『なに?』
『大丈夫か?』
『大丈夫。心配しないで…炎輝。恨んではだめよ。あんな風に口さがない人は一定数いるわ…不運を誰かのせいにしたい弱い人よ。私は父上を信じてる。もしかしたら悪い事をした事もあるだろうけど。でも私の父上は家族を大事にして母上を誰よりも愛してる。私達はあんな妄語を聞かされた事もなく幸せに育ったんだもの。胸を張っていかなきゃ…それよりも清流が無事で良かった…』
傷が深ければ深い程平然と見せ強がる雪蘭はその実立っているのもやっとであった。
炎輝は姉の悲しみを察知し、父に対する人々の考えをまざまざと知り怒りと悲しみとが混ざり合った。
『炎輝。私…白盟主にも迷惑かけてしまってるのね…あんな風に言われるなんて…』
『………母上は人を恨むなって言ってたけど理解できない。』
『炎輝…』
『ねえ、だったら余計に私達、真っ直ぐ前を向いて生きるしかないわ…この事から逃げずに真っ向から受け止めて生きる。負の因縁じゃなくすれば良いのよ…』
炎輝は立ち止まり姉をみつめた
『分かってるよ…姉上…俺が強くなるから…』
【邪悪な娘】と呼ばれた姉の傷が底のない沼地の様に深い事を心配した
『じゃあ、炎輝。雪月…。またね…蕭白盟主の邸に戻るわ』
『姉上…』
『父上や母上には言わなくて良いから…心配かけたくないわ』
『…分かった』
蕭白の邸前で姉弟は別れた。
雪蘭は失意の中にいながら邸の庭を歩き、気付けば蕭白の部屋の前にいた。
邸を駆け出した時は日暮れ時で赤紫を筆に滲ませた空はすっかり漆黒に染められていた。
『雪蘭か?』
『!』
戸が開き蕭白が立っていた。
『待っていたぞ…予定より会議が長引き心配をかけたな。無事に帰り着いた…そなたは私の留守の間どうであったかな?』
どこまでも曇りない瞳で蕭白は笑った
雪蘭は何故か後ろめたさを感じた
『…あの…白荘主、ご無事でお戻り何よりでございます。私…もう力が悪戯に暴走する事なく抑え込む事ができるようになりました。』
白は笑顔で喜んだ
『そうか…良かった…。どうやって克服したのだ?』
『…はい…父に力を貸してもらいました』
『秋月殿に?』
『はい。白荘主と清流の無事を確かめるために急ぎ力を制御しようとした時…父が…』
何があったのかを細かく説明する。
『なるほど…あの男らしい』
『あの…白荘主は父を恨んでいますか?』
『ん?どうしたのだ?突然…』
『白荘主は…母と本当の意味で夫婦になりたかったと仰いました。婚約までして母も結婚するつもりでいたのに。父に壊されてしまったのですか?』
『そうではない。雪蘭…私が春花殿を愛したように春花殿は私を愛せなかったのだ…何故ならそなたの父がもう心に住み着いていたからだろう…』
『……』
『恨んでなどいない。幸せを願っている。それはそなたの幸せも同じだ』
『え?』
『して、雪蘭。力を制御できたのなら約束の結婚の儀の話だが…どうする?』
『……』
『あの時はそなたの熱意に押され婚約は承諾をしたが今はどうだ?』
『今……』
『申してみよ』
『…分かりません』
『そうか…なら答えが出るまで待つとしよう』
蕭白は雪蘭を部屋まで送る。闇夜には星々が煌めいていた。
『雪蘭…あれを見よ…あの星が見えるか?』
『はい。』
『あの星をそなたに贈ろう』
『え?どういう意味ですか?』
空に向け開いていた手の平をぎゅっと結んだ
『??』
雪蘭の前で手を開く
『!?』
白い碁石のようだった
『これは昔、そなたの母春花殿に今の様に取って貰った星の守りだ。』
『……』
『私の事はもう十分守ってくれた…そなたに贈ろう』
『でも…』
『この星には力がある。困難を乗り越えて進む道を指し示してくれる』
雪蘭の手を取ると星守りを手の平に乗せた。
『そなたの進む道を見つけるのだ』
『……白荘主』
『夜風は身体に障る。早く部屋に戻ろう』
『はい…』
翌日、緑袖が雪蘭の部屋を訪れた時、雪蘭は依然眠っていた。力の制御に疲れが出たのだろうと蕭白は休ませるよう伝えた。しかし、それから数日間雪蘭は目を覚さなかった。
その後9へつづく