『兄上…どうにかして。こんな事で娘と離れるなんて…数日なら我慢できても…結婚?こんなに早くに別れるのは淋しすぎる』
秋月は深い溜息を吐く
『妹よ…娘はお前に似て決めたら頑固だ。結局いつも私が折れたであろう?忘れたか?』
『……でも』
『困った時だけ兄上と呼び翻弄する…娘の突拍子もない発言に動揺する暇もない。だが雪蘭、結婚については私も許可は出来ぬ。お前はまだ16だ。成人するまでは婚姻は認められぬ。』
『成人って?父上が言う成人はいくつです?』
『私が認める歳までだ』
あくまでも自分至上主義の父の発言に雪蘭はすぐ様反論した。
『はぁ…だとすると父上はいつまでも認めぬつもりでしょう?』
雪蘭は落ち込む。
結局は父は望みを聞いてくれるつもりはないのだ。
『秋月殿、春花殿1つ提案がある…雪蘭の希望にも近付くと思うが…』
黙って思案していた白は浅く溜息を吐きそして覚悟を決めた様に話し始めた。
『………』
『…話だけは聞こう』
部屋にある円卓を囲み主である白は茶を淹れた。
『で?提案とは何だ?』
急須を置くと秋月に向き直る。
『……上官秋月の長女雪蘭と鳳鳴山荘荘主の婚約を発表する』
『!!』
『結婚とどう違うのだ』
『婚約ですか?結婚ではなく?』
雪蘭は不服そうにする。
『結婚するにはまだやはり若すぎる。勿論、早い者は早くに所帯を持つ。だがこの件に関しては互いの過去がある。鳳鳴山荘と千月洞の名が必ずしも良い方向に働くとは思えない。』
『お前にとっては体面も良くないからな。元婚約者の年端もゆかぬ娘と親子ほど歳の離れた盟主の結婚など良からぬ噂で鳳鳴山荘荘主の名も折れぬとは限らぬ…いやむしろ格好の噂の的だな』
大人達の話を耳にしながら己の浅はかな提案で蕭白の立場が揺るがされてしまうと知る。
『結婚の約束の名の元に数年嫁入り準備期間とするのはどうだろうか…』
『数年とは?』
『3〜4年。それだけあれば雪蘭も力を制御できるようになる』
『そしてその後はどうする?約束通りに結婚するか?』
『……もしその時に互いの心が同じならばそれも良かろう。私が雪蘭に持つ感情が父兄の親愛から妻への情になるやもしれぬ…人は変わる。そうであろう?春花殿』
『…蕭白』
蕭白が心の奥底に仕舞い込んだ想いを春花は感じ取りながら何も言う事はできなかった。
かつて蕭白の妻になると心に決めた事がある。
しかしその心に疑念や不信の隙が生まれた。心の隙間に種を蒔いたのは秋月で、いつしか花の咲くが如く秋月を愛するようになった。
『では…蕭白盟主…私との結婚はどうなるのですか?4年後に私を妻にして下さるのですね?』
雪蘭の必死な姿を春花は訝しんでいた。
心の内を読み解こうにも雪蘭は心を閉ざしている。秋月のそれと同じく心の奥に沈めたものはそう簡単に読む事ができない。
その表情からは何を考えているかさえ分からなかった。
『すまない…雪蘭。いくら江湖武林の平和の為とは言え雪蘭の願いは簡単に叶える事は難しい』
『ですが、私が白盟主の妻になれば魔教の残党も愚かな願いを諦め江湖の平穏に繋がるのではないですか?なのに何故?だって…母上と結婚しようとしたのも…正義の為。長生果という実のせいで招いた江湖の混乱を鎮める為の結婚だったのではないのですか?』
『雪蘭?何故それを?誰から聞いたのですか?』
『清流のお祖父様です』
『先代の秦掌門か……掌門の座を流風に渡した後、時間がありすぎてあちこちで色んな噂話をしているとは聞き及んでいる。雪蘭、それは誤った情報だ。』
『え??違うのですか?』
蕭白が次の言葉を告げるのを秋月は待ち侘び、春花は動揺した。
蕭白の本心、心の内を誰よりも近くで感じていたのは春花であった。
いつしか白の自分を見つめる視線の変化と共に聞こえる鳳鳴刀の鼓動。それは紛れもない真心だと分かっていた。
『ああ。間違いは正さねばならぬな。
そなたには正直に申す。私は本当の意味での春花殿との結婚を望んでいた。だが長生果の混乱を鎮める為に利用したのは確かだ…それで春花殿の心が離れてしまった。今思えば何度も…混乱を平定する名目で春花殿を利用したかも知れぬ。それを知る度に春花殿は悲しい顔をしていたのに私は何も出来なかった』
『え?もしかして…白盟主は母上を…』
『愛していた…心から』
『し、蕭白。過去の事よ気にしないで。それに私を利用したり操ったりは貴方だけじゃなかったわ』
ちらと秋月を見る春花。
『……過去をいくら話しても今が変わる訳ではない』
秋月はそれすら物ともせずに答える。
『都合が悪いとすぐこれだから…』
『……』
『それより蕭白、以前のお前であったら雪蘭と結婚していたろうな』
秋月は蕭白に向き直ると問うた。
『ど、どういう意味?』
春花は首を傾げたがその逆に蕭白は秋月の言わんとする事が十分理解できた。
『…ああ。多分』
見つめる秋月の目を逸らす事なく蕭白は頷いた。
『………』
『え?え?』
2人を交互に見ながら頭には疑問符が浮かぶ。
『妹よ。分からぬか?この男は変わったのだ…正義の為、平和の為に動いてきた鳳鳴山荘荘主が、今度は平和や正義より己の意思を選び結婚せぬという事だ』
『………』
『………』
沈黙を破ったのは雪蘭だった。
『……分かりました。私はそれでも構いません。婚約で構いませんので宜しくお願いします』
深々と頭を下げた。
『ねぇ、雪蘭と2人で話をさせて?』
『分かった。母と娘の話があるのだろう…秋月殿はこちらへ…』
蕭白と秋月は部屋を後にする。
2人を見送り春花は雪蘭の手を握る。
『……ねぇ、雪蘭。本当の事を話して…何かあったんじゃないの?』
『……何も…』
雪蘭は目を伏せた。長い睫毛が艶やかに弧を描いている。今日あった事を何でも話して無邪気に笑っていた幼い雪蘭はいつの間に居なくなったのだろうか。
『雪蘭…蕭白を利用してはならないわ』
『!!』
雪蘭は母の言葉にハッとする。
『蕭白盟主、秦流風殿、冷凝さんに風彩彩さん。私の大切な仲間なの。それに、あなたには誰よりも幸せになって貰いたい。恋をした事がないならして欲しいの。泣いたり笑ったり苦しんだり…自分の心と頭の中が違って行動にできなくなったり…相手の幸せを願ったり。色んな感情を知って欲しいのよ』
『蕭白盟主を好きになるつもりです…ちゃんと…』
声を振り絞る雪蘭に春花は優しく諭す
『愛はね、努力するものじゃなくていつの間にか自然と生まれてるの…最初は気付かないわ。
でも、色んなことが起きるたびに小さな選択がある。その時、誰を想って選択するのかが段々と分かってくるの。貴方の父上はあんな風だけど、自分の事ばかりに見えるかも知れない。でも本当はいつだって私を、私の気持ちを選択してくれた。
私だって蕭白が運命の人と思ってた。人生を共に歩くのは絶対に彼だと思っていたのに…何故かずっとあの人を…想ってしまってたの。』
『それは…どう言う気持ちから?だって白盟主と父上は敵同士ではなかったのですか?だったら…私が母上ならそんな風には…思えない…』
『それが愛だと気付いたのはずっとずっと後からなの。敵同士で戦いがいつ始まるか分からない日々に、それでも貴方のお父様には…兄上には生きて欲しい死なないでと毎日祈ってた。』
『母上…』
『理屈でなく、努力して得るものでもない…努力して愛する事なんて無理だわ。
知らぬ内に根付いている感情よ。いつかそれが根を張り茎を伸ばし蕾をつけ花開く時に気付くの…ああ、愛してるんだって。【信じられなくても信じてしまう】【会いたくて苦しい】それは愛してるからだって…だから雪蘭。あなたがよくよく考えた発言は、誰かにとっての苦痛にならないか…思い出して』
『…清流…』
白との結婚を希望した雪蘭の言葉に、深く傷つき苦痛に歪んだ清流の表情が思い浮かぶ。
何故かは分からなかったが胸が痛んだ。
『あなたが一番守りたくて信じたくて大切な人は誰か…今はまだ分からないかも知れない。傍にいない事を寂しいなと思う人、他の誰に信用されなくても、その人にだけは信じてもらいたい人。そんな人ができたら…母に教えてくれる?』
『……はい』
『それまでは、私も鳳鳴山荘にいる方が良いかも知れないと少し思うわ。可愛い子には旅をさせなくちゃいけないとも分かってる。この母だって最初は勇気を持ってやってきたんだもの』
2169年の遥か未来の彼方から本当の愛を手に入れるために永遠の命を捨てこの世界にやってきた春花は娘雪蘭に微笑んだ
『母上…ごめんなさい…勝手な事言って…父上も怒ってる…でも、力が制御できないのが怖い…千月洞の星主星僕、それに月僕達もきっとどこかで私の力の暴走を待ってる…それが悪い方に利用されるのが怖い』
『…月僕?ねえ、まさか葉顔さんの所で何か言われたの?』
『………』
『雪蘭。本当の事を教えて…黙っているのは嘘をついているのと同じよ』
『………私の力が江湖の平和を邪魔するのに使える。上官秋月と雪蘭が千月洞に戻れば今の鳳鳴山荘など敵ではないと…葉顔先生の所で誰かが話していたの…』
『だから鳳鳴山荘に居ると言ったの?』
『……鳳鳴山荘に居れば諦めて手出しはしないと思って…』
少女らしい短絡さも浅慮な発言も若き頃の自分と変わらない。むしろ、娘は家族や江湖を想って言った言葉。我儘なだけの娘の発言ではないと感心した。
『分かったわ。だったら鳳鳴山荘荘主との婚約を進めましょう?』
『え?』
『もういい加減、この負の因縁を断ち切らなくてはならないわ。でも、私と約束した事は守って頂戴?』
『約束?…あ、信じてもらいたい人。傍に居ないのが寂しいと思う人を見つけるって…』
『そう。つまり自分にとって特別だと思う人を見つけるの。わかった?』
『はい』
『それから今日からここでお世話になるなら緑袖さんの言う事をよく聞いてね?厳しいけど薪割りは蕭白にお願いすれば良いわ』
『え?』
『冗談よ』
春花はこの場所に来た頃を思い出していた。
その頃、別の部屋では秋月が憮然としている。
出された茶に口をつける事もなければ手を伸ばす事もなかった。
いくばくかの沈黙の後秋月は重い口を開いた。
『蕭白よ…』
『なんだ?』
『お前はまだ春花を想っているのか?』
『ああなんだ。そんな事か』
『愛とか恋とかいう情ではない。私の心の大切な場所に彼女が存在する。ただそれだけだ。私は武芸しかしてこなかった。武芸しかない私に長い年月がかかったが別の安らぐものが生まれ、それが生きる支えになっている事に気付いたんだ。』
『安らぐ空間…よく言ったものだ。春花には蓮の花にも似た安息の効果があるようだ』
千月洞洞主であった頃、妹を心配する名目を作っては春花に会いに出向き、時に風彩彩に見つかった日もある。
危険を冒しても春花に会いたかったのは安らぎを求めていたのだと蕭白の言葉に気付かされた。
『私は…彼女が幸せでさえいればそれで十分だ。だが奥方をあわよくば頂こうなどと下心は持っていないから安心しろ』
『あったとしてもお前には無理だ』
『ああ。分かっている。私の心は鳳の如くあの空へ飛び立った。だがもう心に嘘をついて生きるのは誤りだと知ったのだ。愛していないのに愛しているふりもできぬ』
『愛しているのに愛していないフリができないのと同じにな』
秋月は蕭白の本心を代弁し吐き捨てた。
『……だからこそ雪蘭との結婚は…永劫ない。だからお前は安心すれば良い』
『彼女の救い主が己ではなく仇の男だった私の苛立つ気持ちが少しは理解できたか?』
『言うようになった。正義の名の下に身勝手に動いていた頃よりは大人になったようだな』
『はは。しかし、人の婚約者を結婚式で盗む盗賊よりはマシであろう?』
春花を愛した男達は互いに火花が散るのをどこか楽しんでもいた。
蕭白と夫婦は再び話し合った。雪蘭から聞いた千月洞の月僕残党の話は秋月が預かり洞主葉顔へ伝えるとなり、春花と子供達は残党掃討が済むまで鳳鳴山荘に身を寄せ1ヶ月後の婚約の儀の後家に戻る事にした。
名目上は婚約の準備の為の滞在である。
決定後に伝令により聞きつけた秦流風、冷凝。李漁、風彩彩の両夫婦は蕭白の元に集まった。
内容を聞くや、冷凝は息子清流が見舞いから帰宅するなり様子がおかしい原因が雪蘭と白とのそれにあると納得した。
月の美しい夜、大事を取り用意された部屋にて1人眠る雪蘭。
格子戸から漏れて部屋に差し込む月の光を見つめた。
『!?だれ?』
気配に殺気立つ雪蘭に格子戸の向こうから人影が月明かりに浮かび上がった
『清流!?』
影だけで誰であるかが分かる。
それだけ近しい存在である。
『…雪蘭』
戸のすぐ向こうに清流がいる。暗闇に浮かぶ月の様にこの世にただ1人、孤独を感じていた雪蘭に清流の登場は救いでしかない。
『身体は大丈夫か?』
『大丈夫…清流?何故入らないの?』
『…お前は白盟主の婚約者になるんだろう?簡単に男を部屋に招くな』
戸を挟み会話する。
思った以上に複雑な感情である。
『もう会わないって…清流が言ったのに…』
『…お前は強がりだから…1人で怖がっているかと思って…』
雪蘭は2人の間にある格子戸を今すぐに取り払い、この世で唯一自分らしく振る舞える清流の顔を見たかった。それこそが母春花の言わんとした存在そのものだとはこの時はまだ分からなかった。
『この闇に浮かぶ月と同じ気持ちだった…』
『雪蘭?』
『真っ暗な空に…私1人で浮かんでいる…そんな気持ちでいたの。いつも』
『お前は見えてないんだ。なにも』
『え?』
床に腰掛け戸に背を預け夜空を見上げる清流
『俺には見える。あの闇に浮かぶ月の周りには無数の星がある…お前には見えないのか?』
『私も…見たい。清流…一緒にその月を見て良いか?』
『………ああ』
雪蘭は戸を開け清流の傍に腰掛けた。
見上げる空には幾千億の星が降り月が揺れて見える。
『月が…揺れている』
雪蘭の言葉に清流は笑った
『月が揺れているんじゃない…お前が泣いているからそう見えるんだ…』
月明かりに溢れた雪蘭の涙は頬を伝い落ちていく
『……清流…私は…』
『雪蘭。言うな…それ以上は。今父と母、風先生も来て今後の話をしている。白盟主との婚約は決まったんだ…』
『清流…』
清流の腕の中に飛び込む雪蘭はいつの間にか逞しく成長した清流の胸に顔を埋めた。
『雪蘭…』
細い肩を抱き締めながら静かに清流は伝える
『俺はお前を守る役を白盟主に志願する…絶対に何があっても命に替えてもお前を守るから…』
雪蘭は浅はかな己が招いた婚約だと激しい後悔に襲われていた。
『私…一生懸命考えたの…皆んなを守りたかった…ただそれだけなのに…何故こんなに胸が痛いの?清流』
胸の痛みが何によるものなのか未だ分からないでいる雪蘭はそれでも清流の腕の中にいる安心感を手放したくないと感じていた。
『分かってる。。だから胸を痛める必要はない。お前はこれから俺から守られていればいい。ずっと守ってやるから心配するな』
『……』
『白盟主と幸せになってくれたらいいんだ。俺は』
清流が呟いた言葉に雪蘭は胸が激しく痛み益々息が詰まる。
月夜に木々が騒めいていた。
同じ頃、秋月と春花は雪蘭清流と同じ月を見上げていた。
『……娘に悪い虫が付くのは嫌気がさすものだが…悪い虫ではない場合はどうすればいいんだ』
『…まさか雪蘭の部屋に行ったの?』
『……清流がいた』
『まぁ…あんなに怒って帰ったのに…』
『心が奪われた者が負けだ…仕方ない。妹に折れるしかない兄と同じであろう』
『……見守るしかないわ私達は。いくら父親でも娘の恋路は邪魔しては駄目ですからね。妹の恋路は邪魔してばかりだったんだから』
眉を顰め秋月が一瞥する
『道を正しただけだ。余所見ばかりの妹でなおまけに方向音痴で真っ直ぐに兄の所に来れなくて本当に困った』
『ふーん!そうだった?』
『妹は狡い。記憶がないと言えば許される。
だが、妹が真っ直ぐこの兄の元に来れないなら兄の私が迎えに行けば良い…そうであろう?』
月光に浮かぶ秋月と春花の2つの影は1つに重なった。
かつて千月閣で2人の影が重なるのを軒先の布に阻害された昔を思い出し秋月は微笑んだ。
その後物語7へ続く
いやぁ…もう蕭白幸せにしたくて書き始めた筈なのに!なんでーってなりながら書いてます。えへへ。私ったらドS!