チクチクでもなくズキズキでもない。
ただ、なんとなくもやもやとスッキリしない気分だった。
朝も胸焼けが酷い。それは昔からだけど体調は万全ではなかった。
心の底から準備万端で何のわだかまりもなくリョウの胸に飛び込みたいのに、二の足を踏む。
何処かにまだ…一馬の居場所が存在するのだ。
一馬の部署の人に聞くと会社にはもう殆どきていないと言う。結衣は普通に出勤して今日もキラキラとした魔性の笑顔を振りまいていた。
「あら?めぐ。あんたどうしたの?顔色悪いけど…」
出会い頭に声を掛けてくるのもマウンティングの1つだろう。
「あらそう?別に顔色はいつもこんなもんだけど…」
「ねぇ、なんで若社長と知り合いなの?」
「なんでって…偶然よ」
「あのさ、良かったら今度紹介してくんない?」
「あのねー、一馬はどうしたの?結婚するんでしょ?今日はどうした?休みなのかな…何か内示とか…」
「ああ…一馬?一馬は私に自由にしていんだって…自由にしてる結衣が好きだって言ってくれるんだよ。内示って?何にも聞いてないわ」
「そうなの?…へえ」
合わない辻褄に疑問が大きく広がる。
「なによ…なんか文句ある?後から来るわよ今日は!」
「そうなの?別に文句とかはないけどあんなに嫉妬深い一馬が自由にして良いなんてねぇって思ってびっくりしただけ」
意地悪だけど本当の事。
一馬はとにかく何でも独占したがりで、でも私はそれが心地よかった。
「……そ、それは私が信頼されてるからでしょ!」
「かもね…じゃあもう良い?」
結衣を避けて通ろうとした瞬間
「いや、ちょっと!だから若社長とさ、どっか行こうよ!」
「ちょ、、辞めて…」
すれ違いざまに結衣の手が私の肩に掛かった鞄のベルトを強引に引っ張る。
反射神経には自信があるのに、目眩が起き対処しきれずバランスを崩した。
「あ…」
「わ!…」
「おい!!めぐるっ」
大声で駆け寄る懐かしい声。
意識は遠ざかりつつ結衣のあの恨みのこもった視線に恐怖を感じた。
そして何より廊下で倒れかけたのを救ったのは…
「か…ず…ま?」
「おい!!突っ立って何してるっ早く医務室っ」
一馬は結衣に向かって怒鳴っていた。初めて彼の狼狽えた姿、誰かに罵声を浴びせる姿を見た。
遠ざかる意識。夢なのか現実なのかが分からなかった。また一馬に弱った姿を見られて嫌だったし、結衣の前というのも不本意だった。
ただ、ユラユラと揺れる感触だけはあった。
生温い温水プールに漂っているような、微睡と現。目覚めると目の前には見た事のない無機質な空間が広がる。
どうやら会社の医務室のようだった。
「ん…ここ…は」
誰かが手を握っている。
まだ覚醒間もないながらそれが誰の手の温もりかハッキリと分かった。
「おい!めぐる?大丈夫か?」
覚醒に気付き覗き込む一馬の顔は多分私より青ざめていた。
「ん…大丈…夫。ちょっと目眩が…」
一馬は安堵の溜息と共にベッドに直に腰掛け、ごくごく自然に腕を伸ばして私の頬にそっと触れた。
思わず体を引く。
「…えっ…と…」
「あ、ごめん…つい」
反応に困るのを見るやそれが別れた2人の行動にしては常軌を逸している事に一馬も気付いたようだ。
「うん…」
無言が続く空間。
でも何故かどこか安心感がある。
「子供の頃から一緒って…良いのか悪いのか分からないね」
「え?」
「ううん…ただ。こうして…もう終わった2人なのに一緒にいる事に違和感がないって不思議で…まぁでも。私達はただの友達に戻ったけど、あなたが幸せになる事を願ってる」
「……ああ」
抑揚のない返事に頭の中には疑問符が幾つも湧いてきた。
だって貴方は私を捨てて結衣と幸せになるんでしょ?本当に幸せなの?結衣は相変わらず好きにしてるけど大丈夫なの?
色々と浮かんでは払い除けた。
私にはもう心配する資格もない。昔の同級生。ただそれだけの2人に、あの夏の日々より前に戻ったのだから…。
「あ、今日は?」
「ああ、今日は引き継ぎかな。たまたま約束の時間より早くに来たから…めぐるが倒れるの見て……怖かった」
「うん…ごめんね助かった」
「ちゃんと、食べてるか?本当にこの前より更に痩せただろ…頼むから病院に行ってくれ、もし何かの病気だったらどうするんだ?」
「うんちょっとね…ダイエットできてるでしょ?大丈夫。私は丈夫だから」
説得力の欠片もない。情けない強がりで恥ずかしい。
本当はあの日から食事がまともにできた日がなかった。食事をするくらいなら早く眠りについて現実世界から遠ざかりたい。なのに眠れもしなくて…そんな日々だから調子が良い筈がない。でもそれを一馬にだけは見せたくなかった。なのに身体が言う事を効かない。思った以上に私は弱虫だったのかもしれない。
中学の頃からずっと隣にいた一馬という片翼を失った影響は想像以上に私を弱気にさせたのだ。
「ばか。そんなのしなくてもそのままで十分だろ」
「会社…離れるの結衣に話してる?」
「ああ、ただ余り真剣には受け止めてはないみたいだな…」
「??」
「いや、大丈夫だから心配するな…もうめぐるにストーカーみたいなことはしないから」
「本当に?結衣とちゃんと話してね…」
やっぱりまだ胸は痛む。だけど彼を手放す事が一馬の幸せに繋がるなら…背中を押すべきだと思う。
コンコン
医務室のドアを誰かがノックした。
「はい。」
一馬が扉を開けると立っていたのは
「社長?」
「嫌だな…僕の事は修二で良いよ」
「そんな軽口叩ける程親しくはないでしょ?どうしたんです?」
「あ、いや…秘書課から君が倒れたって聞いて…って…あれ?君は杉原副社長の…って事は…」
勘の良い若社長は医務室に2人でいる私と一馬を交互に見つめた。
「僕はたまたま倒れた所に居合せただけなので。やましい事はありませんよ?若社長…ではこれで。」
一礼すると医務室を後にした。
一馬の背中を見送りながら寂しさが込み上げる。
「…兄さんに話さない方が良いかな?」
「別にやましい事はないから言っても構いませんよ。」
「……1つ聞きたいんだが…杉原一馬と秘書課の伊東結衣はどうなってる?」
「さあ…」
「秘書課から連絡を受けたと言ったが、連絡をくれたのは伊東結衣だ…内線の切り際に今度仕事の相談させてくれだと…本当にうまくいってるのか?あの2人」
「わかりません…だからって何か変わるんですか?」
起き上がるとベッドを出て簡単に身支度を整えた。
「もう、行きます」
「送ろうか?」
「いいえ!」
「ははっ。怖いな…ねえ、兄さん親父に言ったよはっきり。カナとは婚約しないって…役員会はひにちが変更になって来週らしい。どうやら別の問題が起きたみたいだ。兄さんは分からないけど…多分来ると思う…気が向いたら行くって言ってたけど」
「そう…良かった。お父様とお話しできたのね」
「?親父と話した事が嬉しい?」
「そりゃそうよ…生きている限り話しができる内にしないと。後悔になるから…私が経験したから言ってるのよ」
「経験?」
「昔ね、事故で父を亡くしたの。私は思春期で…喧嘩して…いつも我慢ばかりで下の弟妹の世話ばかりで友達とも遊べなくてウンザリだって。お父さんとお母さんのせいでこんな目に遭って迷惑だって…嘘なのに。少しも思ってなくて…なのに言ってしまって…悲しそうな顔でごめんなって言ってて…翌日謝るつもりが…永遠にその機会を無くして。後悔しかないわ」
「………」
「だから、お父様に言いたい事を思った時が言える時だと思って伝えなくちゃ…あなたも」
「……」
「だから私は出来るだけ思った事は言うようにしてる…私の周りの人には私みたいに後悔しながら生きてほしくないから」
「…僕も?」
「…当然でしょ?」
若社長は何故かホッとしたような少年のような表情を見せ馴れ馴れしく肩を抱いてきた。
「じゃあ、言うけど。兄さんと別れたら付き合ってくれる?」
「無理です!」
「無理かーっなんだよ」
「…貴方達兄弟よく似てるわ。そんな風におちゃらけて見せて気遣いしてくれる。私が…今…酷く落ち込んでる事お見通しなのね?」
「何の事?ま、とにかくあの伊東結衣には気を付けるべきだね」
「…はい。ありがとうございます若社長!」
「馬鹿にした呼び方だな!まだ未熟はよく分かってるよ。暫く兄さんが戻るまでの代わりだけどしっかりやるつもりだ」
「貴方も…お兄さんが大好きなのね…自由にさせてあげたいから…身代わりをしてるの?でも、私は修二さんは修二さんらしい社長で良いと思う」
「え?」
「正解でしょ?」
「あーあ。開発部には勿体無い。怖い人だな」
若社長の肩の荷がどれだく軽くなったかなんて私には分からなかったけど、それまでの暗い表情が一転して冒険好きの少年がこれから旅に出るという様な希望に満ちた顔で笑った。
そして、修二の出現に退散した一馬の後ろ姿がいつまでも残像としてこの胸に残っていた。
adore you 11へつづく
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