サジャは怒りに任せ社長室の机に拳を振るった。
『なんだアレは…もしかしてチョルセ…』
サジャにはとても信じられなかった。
『コンコン…扉開けっ放しで暴れてたら怖がられますよ?』
ノック音も口頭で済ませ許可も得ずに部屋に入る。チョルセはサジャに向かって笑った
『なんだ?』
『随分と感情的だねスソンさんに対して…もしかして本気とか?』
『……』
『昨日会ったばかりの人間にそれはないな。うん。だったら…2人は顔見知り。昨日久々に再会した2人。でいい?』
腕を組みわざとらしく推理していくように述べていく。
『何が言いたい?』
『でもさぁ、君の婚約者は何も知らずに待ってるんだろ?いくらかつての恋人に再会したって、まさか何も始まらないよね?』
『婚約は…』
『叔母さんが勝手に決めた婚約だからぞんざいに扱っても良いと?』
『そうは思っていない。勿論きちんと…』
サジャは脳裏に浮かんだ。スソンに出会ってなければ婚約者とすんなりと結婚し家庭を設ける筈だった。だがその家族の未来が脳裏に描けない。想像できなかった。その為に後に延ばしてきた訳である。結婚したい理由もしない理由もなかっただけでスソンの悪策を聞いて自暴自棄に母親の言いなりを承諾した。
今はその愚かな自分を呪う。
『きちんと結婚する。だろ?勿論…じゃないと婚約期間を延ばし延ばしにしてきて解消なんて相手からの慰謝料請求もどんな額になるか。まぁ良いよ。気持ちはわかる。スソンさん綺麗だからね。君にとって再会した昔の彼女であってもただそれだけだろ?令嬢キム・チャンミは婚約者としてお前を待ってるんだ…もし、サジャとキム・チャンミの間にあのファン・スソンが割って入るなら全力で邪魔するつもりだ…邪魔するったって彼女を傷つけることはしないよ。僕は誰かさんみたいに傍に居る人間を皆傷付けるようなタイプじゃない。平和主義なんだ』
『スソンを…どうする?』
『君に教える義理はないけど…大事にするよ僕の鳥籠に入れてね』
『なっ…』
『それが君のお母様のお望みだよ…いや、命令?』
笑った。
『サジャ、そんなに悪い事でもない。彼女も一国一城の主の妻になるより、僕の妻の方が豊かな生活にはなると思うよ。君の隣に並び立つというのはやはりそれなりの家柄や教養がなければ難しいだろ?それに彼女は…シングルマザーだ。しかも未婚で出産してる…君の正妻には相応しくない』
『調べたのか?』
『君が興味を示すなんて珍しいからね』
『……』
『まぁ、妻にっていうのは行き過ぎた発想だったよ。何せ君が余りに動揺するからこっちもつい極端な風に。でも決めるのはスソンだし、僕も君と同じ【飾りの妻】なら誰でも良いクチだから言ったまでだよ』
悪びれたところもないチョルセは腕時計を確認する。
『あ、やばい…今日は一日忙しいんだった。サジャ、君もだろ?締め括りはお互い美女とディナーか。相変わらずどこまでも僕達は同じだな。じゃあ行くよ』
チョルセは背を向けた。
『待て…チョルセ。何を企んでる?朝、彼女にジャケットを貸したのも何か意図的なものがあるんだろ?』
『あ、朝?朝はたまたま偶然見ちゃって…誰かさんの車から降りた後うずくまってる姿。具合わるいのかなぁって声掛けたら寒かっただけみたい。あ、このジャケットさ、ちょっと彼女の香りが移ってんの…移り香ってやつ?やらしいよね。』
『スソンは身体が丈夫じゃない…出産の時に命を落としかけて今も時々発作が起きるらしいから…気遣ってやってほしい』
『は?なんだそれ…どこから仕入れたんだ?その情報』
『今朝、スソンの母親から聞いた。』
『へぇ、天下のイ・サジャがわざわざ昔の彼女を迎えに行って親に挨拶したんだ…益々おかしな話だな。ただの再会じゃなさそうなところに違和感を感じるが、お前は婚約者の事だけを考えてろよ』
チョルセは部屋を後にした。
暫く考え込んだ後サジャはすぐさま予定を変更した。
その日の夕刻、仕事を終えたスソンは帰り支度をしていた。
朝のチョルセの招待も受けるつもりはなかった。見つかる前に会社を出れば面倒を回避できると終業を知らせる音楽が鳴る中半ば駆け足で社を後にした。
バス停に着き今来た道を振り返るが誰も見知った人はいない。ホッと一安心でバス停の長椅子に腰かけた。
バスはまだ10分も後の到着予定だった。
スソンの細い腕にかつてサジャから貰った華奢なチェーンベルトの時計が揺れている。
何度も確認しながらバスがやって来る方向を見ていた。
『遅いですね?今日のバス…』
『あ、そうですね。いつもこんな感じですけど』
隣から声をかけられ振り返る。
『あ…チョルセ…さん』
隣に腰掛けたのはバス停にそぐわない高級スーツに身を包んだチョルセだった。
『僕から逃げようとしたのかな?』
向けられた笑顔にスソンは気不味く、負い目を感じる
『ごめんなさい…厄介ごとに関わりたくなくて…』
『厄介ごと?!僕と食事に行くのが?』
『あ、いえ…ごめんなさい。貴方とが嫌な訳じゃなくて正確にはイ・サジャの関わりのある人間とは付き合いたくないの私』
『随分ハッキリ言うね…だが気持ちはわかる。正直僕もだよ…』
『え?』
『でも、終業の音楽も鳴り止まない内にコソコソ逃げられる程嫌われてるなんてちょっとショックだな』
『あ、ごめんなさい』
『あー、、鼻水が出だしたな。朝ね、具合の悪そうな会社の子にジャケット貸したんだけど…こっちが風邪引いたみたいだ…』
『え?うそ…本当に?』
『寒くてさ…悪寒ってやつ?熱上がる前触れかな。体も怠くて…君を追いかけるので精一杯』
チョルセは掌を額に当てる。
『ご、ごめんなさい。ああ、私のせいよね。。えっと…先ずは薬屋さん行って…あ、貴方家は?送るわよ…タクシー捕まえるから!』
『え?…ちょ…』
チョルセが気付くとスソンは交通量の多い車道に走り、空車のタクシーを無理やり止めてバス停の先に誘導した。
余りに突然の出来事でチョルセは嘘だと言い出せなくなった。彼女の負い目に訴えかけてディナーに連れ出す作戦が早くも計画倒れとなった。
スソンの行動力と腹黒さのない咄嗟の行いに興味が湧き上がる。
『スソンさん…あの…』
タクシーの後部座席にもたれかかりスソンを呼んだ。
『何?薬屋さんで薬買うからね。あ、家はどこ?運転手さん!ゆっくり走って。彼、体調悪くて』
頼もしさに圧倒されるチョルセ。
『いや…夕食…』
『え?夕食?お腹空いたの?だったら何か作るから…心配しなくて良いわ』
益々嘘だと言い出せぬまま薬局を経て自宅マンションへと到着した。
チョルセのマンションはコンシェルジュ付きの豪華なものだった。
『あ、チョルセ様!どうされました?』
『すみません、彼…体調崩して…』
『それは大変でございました。本家様に連絡した方が宜しいでしょうか?医師たちを呼ぶならそれが一番早いかと…』
『いや、良いよ。大丈夫だ』
やりとりに困惑するスソンを尻目に、チョルセは自宅へのエレベーターを呼びつけた。
乗り込むと行先ボタンは1つしかない
『???』
『これは僕の部屋にしか止まらないから…最上階がペントハウスなんだ。』
成る程流石一族なだけある。
『ねぇ、まさかここって…』
『僕のビルだけど?それより、スソンさん何か飲む?』
『僕のビルって、、このタワーマンションごと?目が回るわ…あ、私は何も飲まないから。気遣いはいりません。食材なにがあるか見せて?あ、それより貴方は着替えて寝てないと』
『ねぇ、僕の部屋にも来てくれる?』
冷蔵庫を覗くスソンの腕を掴み引き寄せた。
『食事が出来たら運ぶわ』
スソンは顔色一つ変えずにチョルセを追い出す。
『手強いな…面白い。ただ病気でもないのに病人のフリってしんどいな』
この状況をどこか楽しむチョルセは部屋に入ると気に入りのBGMをかけた。
ベッドに仰向けになり天井を見つめながら思案に耽る。
あの帝国の若王が珍しく気にかける女だから興味が湧いたがサジャの結婚を無事に済ませるのが第一優先であると叔母でもあるサジャの継母から与えられた仕事でもあった。
『チョルセさん?おかゆ作ってみたんだけど…どう?』
『あ、うん。ベッドで食べるから運んで?』
『分かったわ…でも食べるのは自分で食べてね』
『どうして?』
『益々ほっとけなくなるじゃない。。』
『あはは!そっか…スソンさんて面白いんだね』
『そう?でも割と元気そうだし』
横たわるチョルセは上体を起こした
『ちょっと話をしたいな…こうやって誰かと話す機会が無かったし…今までは一族関わりの人ばかりで』
一口スソンの作った粥に口をつけた。
『あち…でも何か懐かしいな』
『あらそう?普通のお粥だけど…。』
チョルセは遥か昔、たった1度だけ母が体調を崩した一人息子のために自ら作った粥の味を思い出していた。
その内、実姉でありサジャの継母ソクサンへの気まずさからチョルセを気遣う事は少なくなった。
それ程、母にとり姉の脅威に脅かされていたのである。
チョルセは理解しながら、寂しい幼少期だった。
『じゃあ、こっちに座って…話しでも…』
気を取り直した様にスソンはベッドに腰掛けるように促される。
『そうね。食事は楽しくした方が良いわね。特にチョルセさんはちょっと元気ないし』
『元気?ない?』
『カラ元気って感じかな…サジャの婚約者さんとチョルセさんって何かあるの?』
『え!?』
『いえ、何となく…今朝話してるの聞いてたらそう思っちゃって…』
『…まぁ、昔付き合ってた少しの間だったけど』
『あら』
『なのにサジャは大事にしないから…ムカついてつい。僕の母はサジャの母親の…妹なんだ。父親はサジャの父親の弟。兄弟姉妹で夫婦なのは政略結婚らしいよね。両家の結束を固める為っていう。両親が自分は兄姉の予備駒だという意識なんだ。サジャの父親は長く付き合ってた彼女が居たけど別れて…その時に多分彼女にはサジャが宿っていたんだろう。僕は暫く王国の継承候補として本家に預けられ育てられた。結局、伯父と伯母は子に恵まれなかった。
随分と後になってサジャがいる事がわかって…サジャの母親はサジャをあっさり手放したって聞いたよ。いつだって親の身勝手に振り回されて僕らはどちらも本当の親には捨てられたんだ。いつだって両親はサジャ優先。どれだけ頑張ってもあいつを越える事は出来ない』
『越えるって…越える事なんかないわ。貴方は貴方イ・チョルセでしょ?努力してきた事は全て貴方が吸収してきてる。貴方自身で今カスタムしてきたんだから。誰かと比較するなんてバカな事言わないで』
『…そっか、、スソンさんが親だなんて子供さんが羨ましいな。。スソンさんはサジャと昔…』
『ええ、少し関わりがある程度よ。でも…ある日突然捨てられたの連絡も取れないし、会って話したい事があったけど…門前払いで出てきてもくれなかった。その直後に婚約を発表したから私はもう要らないのだと割り切ったの。チョルセさんは婚約者の方を取り戻そうとしなかったの?』
『え?』
言われてみれば、突然明日サジャと婚約するという連絡に何も言わなかった。
『不完全燃焼したのね?今からでも良いから気持ちを伝えてみたら?』
『…無駄だよ』
『どうして?』
『僕が追いかけてみっともない姿を見せる程には愛して無かったと思う…不完全燃焼なのは本気になる前だったから…さぁ今からだって時に奪われた。でも今度はそうならない』
『あら、なんだもう良い人がいたのね?だったら今度は大事にして。手を離さないであげたらいいわ』
『綺麗なのに底力もあるし、母性に溢れた人だよ…。それに僕をあの家とは別に個人を見てくれる。タクシーを車道を駆け抜けてつかまえたりするんだ。』
『ん?』
チョルセの言う該当人物がもしかして自分かもしれぬと咄嗟にスソンは離れようとする。
しかしそれよりも先にチョルセの手がスソンを捕らえて離さなかった。
もがき抵抗するが力では到底勝てる相手ではなかった。
スソンはチョルセに組み敷かれる。見上げるとチョルセの表情は苦痛に歪んでいた。
『今まで僕の為に何かをしてくれた人なんていない。あくまでもサジャの予備だから…』
『チョルセさん…私には子供がいるの』
『知ってる。だがそれはなんの障壁にもならない』
『…私は誰とも無理よ…って何する気?』
『何って口塞ごうかと思って…そんなに子供の父親が忘れられない?』
『……』
『無言のイエス?図星って事かな。でも今はそれで良い。これから先…』
『勘違いだと思うわ』
必死に抵抗するスソンは抵抗の中声を絞り出した。
『勘違い?』
『心配される事に慣れてないから、誰かに世話を焼いて貰ったり、少しの事で嬉しく感じてしまうの。それを愛だと勘違いして…私にも経験があるから分かる…だから』
『だから?解放しろと?そんな相談は受付けないよ。』
スソンは顔を背けた。しかしあらわになる首筋は男に火を点ける。
チョルセは両手を押さえつけたままスソンの白い首筋に口付けた。いくら力持ちのスソンでも男にとれば容易い。その両手首はチョルセの右手に捕縛された。
スソンのうなじから香る甘い芳香にチョルセは更に我を失った。
『やめてっ』
『無理やりっていうのは主義に反するけど…これも仕事だしごめんね』
片方の手はスソンのスカートの裾に伸びる。
もう抵抗も無理だと諦めた瞬間に脳裏に浮かぶ男の名を叫ぶ
『サジャ…助けて!』
『おい!!チョルセっ何をやってる!』
叫び声と同時に部屋に踏み込んできたのは紛れもなくスソンが助けを求めたイ・サジャその人だった。
チョルセの首根を掴み殴りかかる。
『サジャ…なんで…』
『コンシェルジュから連絡があった。具合が悪そうだと…そして付き添いの女がいると…』
『…ふん。何から何まで監視されてる。優秀な使用人がいるのも考えものだな』
切れた唇を拭う
サジャはガタガタと震えるスソンの腕を掴むとチョルセを睨んだ。
『来い!チョルセ、スソンは返して貰う…』
『……』
サジャはスソンを連れチョルセの部屋を後にした。
巡り逢い7へつづく