強烈な怒りは行動全てを荒々しくさせる。
スソンは些かの恐怖心さえ持ってしまう。
無理やり腕を引きマンションのエントランスではサジャに深々と低頭するコンシェルジュを無視し横切る。こんな時でもスソンはコンシェルジュに頭を下げた。
エントランスを出ると外はすっかり日が暮れ、西の空が辛うじて赤く燃え尽きた太陽を追いかけ既に夜が始まっていた。
『乗れっ』
マンション前のロータリーに無作法に停車された高級車は主と同じく尊大な佇まいでサジャの帰りを待っていた。
助手席のドアを開き、乱暴にスソンを押し込む。
『ちょ…痛いっ』
『……』
スソンの訴えを聞いても眉間に寄せられた皺は絆される事はなかった。
運転席に滑り込みすぐ様エンジンをかける。
『……』
『……』
沈黙の中、溜息を吐きサジャはスソンを一瞥した。
『なに?』
顎で何やら指図する。
『…シートベルト?しろって?…嫌よ。私は別に…んっっ』
口答えを許すつもりもないサジャはスソンに覆いかぶさるようにして唇を奪った。
『んんっっ…』
両手で押し退けようともビクともせず、その隙に見事にシートベルトを装着させられる。
『っっちょ、、やめっ…んっ』
ようやくサジャがスソンに自由を与える。
『何を…あ、シートベルト…』
『ふん。シートベルトさせてやっただけだ。あぁ、何か唇に触れたかな…』
嫌味な笑みを浮かべながらスソンを睨みつけた。
『な、何して…っ』
唇を手の甲で拭うスソンの腕を掴んだ
『赤くなってる……チョルセか?』
掴まれた腕が赤く痣になっていた。
『痛っ…』
腕を離さぬままサジャは車を走らせた。
『片手で運転なんて危ないわ』
『独身の男の部屋にのこのこ行くよりは安全だ』
『……』
スソンの自宅への帰路を走っているらしく見慣れた看板やビルが通り過ぎていく。
等間隔の外灯は否応なくオレンジの光を車窓にぶつけては弾かれていった。
窓の外に向けていたスソンの瞳からは涙の粒が零れ落ちた。窮地から脱した安堵から来るものだった。窓硝子に映るスソンの頬が涙で光るのを見逃す筈はない。
サジャは、自身の怒りを一旦鎮める様に一息吐くとゆっくりと側道に入り、適当に走らせながら高台を目指した。
到着したのは山上にある公園の駐車場であるらしかった。
眼前には街の灯りがチラチラと輝いて見える。
しかしスソンはそんな事を考える事も出来ない程衝撃が続いていた。
『……大丈夫か?』
『え…あ…ええ。今頃になって…震えてきちゃって』
スソンが震えるのを抑えようとするのをサジャはそっと止めた。
『こ、こわ…かっ』
『もう大丈夫だ』
か弱く震えるのをどうしようもなく守りたいという保護本能が刺激され助手席で震えるスソンを思わず抱きしめた。
サジャとの確執を思えばここで激しい抵抗をみせる筈のスソンは人当たりの良い善人然としたチョルセの豹変と陥った身の危険にショックを隠しきれずそれどころではない。
『なんでチョルセのマンションへ行った?』
『……ジャ…ジャケットを』
『あぁ朝の…で?風邪ひいたから看病しろとでも?』
『え?』
当たらずとも遠からずの鋭い推理にスソンは驚く。
『あいつがやりそうな事は分かる。人の弱みにつけ込むのは得意技だ』
『いえ、でも看病しろとは言われなかったの。ただ、風邪をひいたのは私のせいだと思って、タクシーを拾って家まで送って…帰るつもりがお腹空いてるって言うから…』
サジャは深い溜息をついた
『自分から狼に食われに行ったのか?赤ずきん』
『違う…けど、色々と話ししてたら何となくほっとけなくて』
『……ほっとけなくてあっけなく襲われて?バカじゃないのか?いい加減にしろ!』
『……』
互いに無言が続く。
駐車場には他に車もなく不遜な高級車1台。
今きた道を戻るにも暗がりの道に進む勇気はない。スソンはいくら沈黙の空間が苦痛でもこの闇夜の見知らぬ場所から逃げ出す事は不可能だと諦めの境地だった。更に今サジャの腕に閉じ込められている。
初めに静寂を破ったのはサジャだった。
『チョルセが…あいつがお前に覆いかぶさるのを見て頭に血が上った…』
『……』
『コンシェルジュから連絡がきてすぐに一緒にいるのはお前だと分かって怒りで叫びそうだった』
『……』
『なんでか聞かないのか?』
『…ええ。聞かない。聞きたくない。言わないで』
『……』
サジャはスソンをその腕から解放した。
ネクタイを無造作に緩めると溜息と共に座席に深く身体を沈ませた。
『忘れられなかった……』
『言わないで』
『愛してる』
『やめて!』
スソンは耳を塞いだ。だがスソン自身の内なる叫びは耳を塞ぐだけでは止める事はできなかった。
【聞きたくない…今サジャの口から言葉を聞けば跳ね除ける事はできない】
だが一方ではあの日の記憶が鮮明に蘇る。
サジャからの突然の一方的な別れを受け入れられずにそして判明したばかりの宿った生命を守りたい一心で縋り付いた。
『ご主人様は「誰とでも寝る様な女とは今後付き合うつもりはない。他を当たれ」と仰っています』
対応した使用人からの伝言は耳を疑う言葉だった。鼻先ででピシャリと扉を閉められた瞬間に深く暗い井戸の底に急降下していくのを感じた。あの絶望をもう2度と味わいたくはない。
それでも、街のどこかでふわりとサジャの香りがするだけで思い出し、胸の奥が軋む様に痛み、湧き出す矛盾した愛に忌々しさを感じていた。
ようやく思い出す事も少なくなり、忘れようとしていた矢先に再会する運命の悪戯を呪うしかなかった。
『私は忘れようとした。あれからずっと苦しくて…今も考えない様にしてるの!』
『…どうしても忘れられなかった…お前が悪女で卑劣な罠で金持ちの男をたぶらかしてるというのを信じたわけじゃない。ただ…怒りでとうかしていた。さっきの光景で思い出したんだ。お前が俺以外の男ともしかしたらと想像しただけで気が狂うほど怒りが湧き上がった…仲間達は何人も口を揃えて証言する。。嫉妬で狂ったせいで判断を誤った』
サジャはハンドルに前のめりにもたれかかる。
『死ぬ程後悔している…』
『……お母様が金で雇った仲間達とやらは良い働きをした訳ね。結局あなたは私を信じなかった。それが全てだと思ったわ』
『仲間の1人に連絡した。。あの時の事はでっち上げだったと白状した。母さんが…仲間の会社を潰すと脅したんだ…』
『そうまでして別れさせたかったの…』
『母にとって俺は血の繋がりのない息子。不誠実な夫が本当に愛した女の息子だから…』
『……だからと言ってあの痛みを私は忘れる事ができない…貴方を許す事は…簡単にはできない』
『俺を忘れようとしてるのか?』
『…ええ』
『毎日考えないようにして?』
『そうよ』
答えながらスソンは堪えきれなくなった。
『なぜ…そんな事聞くの…』
『忘れてないから忘れようとする』
『言わないでって言ってるでしょう?』
『考えないようにするのは…』
『そうよ、四六時中考えてるからよ!』
遂に重い蓋に鎖でがんじがらめに閉じられていたスソンの思いは溢れ出てしまった。
口に出してはならない言葉が解放された瞬間、スソンの目から零れた涙がパタパタと床に落ちた。
『同じだったんだ…俺もずっと同じだ。忘れようとすればする程2人で過ごした日々、笑い声や楽しかった事が鮮明に思い出されて…考えないようにしようと決めた次の瞬間からもう考えていた…今傍にいたらどうなっていたかと…ヘテの事を知って余計に3人の未来を夢見た…』
『………なんで』
『もう、泣くな。傷つけて…ごめん…スソン…』
『それでも今は何も考えられない…』
『なっ…』
サジャが反論しようとしたその時、けたたましい携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。
スピーカーのまま応対した。
『……はい』
『サジャか?』
『なんだ、狼のチョルセか。なんだ?』
『スソンさんは?』
『赤ずきんの行方がきになるのか?』
『ふざけてる場合じゃない。スソンさんを送ったならすぐ引き返せ…』
『どういう事だ?』
『今日お前は婚約を破棄しただろう?叔母さんの耳に入ったらしい…スソンさんに何かするつもりだ…あの人は前にもお前の両親を…うわっ…』
チョルセの声も流れていたBGMも一切の物音がしなくなり通話が途切れた。
『チョルセ?チョルセ!どうした?おい!返事をしろっ』
スソンとサジャの目の前には深い森が広がる、まるで地獄への道行の如く暗闇が口を開けている様だった。
untitled 完へつづく