私の手を掴んだまま彼は言った。
その表情が一瞬暗くて寂しげで…
『うん…わかった。じゃあ…ゆっくりする』
考えるより先に出た言葉に目を丸くして
『マジで?』
子犬みたいな目で喜んだのが分かって胸が疼いた。
それはきっと私にも経験があるからかも知れない。
他人で、出会ったばかりの私でも置いていかれたくない気持ち、誰かが去った後の孤独と不安が分かりすぎて、なにが何でも今すぐ帰るなんて言う気になれなかった。
『じゃあ…もうちょっと…昨日みたいに抱いたまま眠らせてくれない?』
『え?!な、何が?何を?』
『いくら酒を飲んでも薬でも眠れた事がなくてさ…けど昨日は何かぐっすり眠れてびっくりしたんだ』
『……』
何を言い出したのかと言葉を失う私を見るや悪戯に言葉を続けた。
『…って言ったら今度は意識ある上でヤれるかなと思ったけど…やっぱ無理か。体は柔らかいのに結構硬いんだな』
『な!からかったわけ?本当かと思って了承しそうになったじゃない』
掴んだ腕を離す事もせず引き寄せ、ベッドに腰掛けた彼は私を抱きしめる。
私は呆然とつっ立ったままでみぞおち辺りに彼の頭があって、日に透けて柔らかそうな髪だなって思った瞬間
何故だろうそのままギュッと抱いてしまった。
何をしてるんだ?昨日今日会った人なのに。
捕まったまま暫く時間が経過した。
『お腹すいたみたいだな…鳴ってる』
『ちょっと、、お腹の音聞かれるなんて結構恥ずかしいんですけど。。でも本当…急にお腹空いてきた。緊張解けたのかな。朝ごはんしっかり食べる派だから朝になると普通にお腹空くんだよね。』
『気緩みすぎ。。ま、いいや。んじゃ…なんか作る。あ、服…あんた地面に転がってたから汚れてるからな。。これで良かったら…』
その辺にあったシャツを突き付けてくる。
『うん…ありがと…お借りします』
シャツからはほのかに彼の香りがする。今更ながら心臓が強く打ち始める。
『じゃ、一階に降りて右奥がリビングだから…何握りしめてんの?俺に着せてもらいたい?』
『大丈夫だってもう!早く行ってよ』
『ハハハッ』
初めて見る笑顔だった。
よく見ればあられもない姿。
『下着一枚だからパンイチか…なるほど』
と妙にこの状況に納得しながら渡されたシャツを羽織ると部屋を出ていった彼を探した。
長い廊下。いくつもある部屋の扉。
窓から差し込む陽射しは十分なのに静まり返っていて雰囲気は重暗くて寂しい。
『勿体ないなぁ…素敵な家なのに…』
漂ってきたコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。
香りと僅かに聞こえる生活音を頼りに1階に降りていく。
広いリビングに無機質なキッチン。
『お邪魔します…』
『ん…コーヒー…ならここに。紅茶なら…多分どっかにある…』
テーブルにはコーヒーの入ったカップが置かれていて、なのに色んな棚を開けて紅茶を探し始めた。
『ううん。大丈夫。コーヒーが良いから』
『…ん…じゃあどうぞ。あと、服…洗って乾燥しといたから…』
『ありがと』
テーブルに向かい合わせて座る居心地悪さ。
話もなくてコーヒーカップの底をいくら覗いても底は見えず永遠の黒さだった。
『コーヒー…まずかった?』
『いや、、じゃなくて真っ黒だなぁって。あ、でも縁は赤いから赤黒なのかな?』
何を言ってるんだ私って思いながら変な言い訳をしている。
『あ…そうだ。名前。名前知らなくて北白河さんは分かってる。長い名前だなぁって…あ、いや豪華そうな名前だなぁって思っていつも通ってたから…下の名前は何て言うの?』
『……要』
『かなめ?…私はね…』
『佐々木さんでしょ?サラってお父さんが呼んでたけど…』
『うん。そう…佐々木。佐々木 サラ』
『字は?』
『…変なんだけど…新しいって書くんだよね。』
『真っ新のサラ?』
『そう。佐々木 新ってサばっかりだし…変わってるって言われる』
『…いい名前だな』
『ありがと。。えと…学校とかって全然重ならなかったよね…確か有名進学校に行ってるって聞いた事ある…』
『…うん。親の敷いたレールに乗せられてね。あの人達の見栄の為に行きたくもない学校に小中高…』
『……』
立ち入ってはいけない気がして所在ない気持ちになる。
『ごめん…なんか暗い話すぎた?』
『ううん…でもしたくない話ならしなくても良いよ?』
『いや、別に…ってかさ…同級生なら…酒まだダメでしょ?』
『だよね…まだダメだよね貴方もね!でも高校生ってほぼ大人でしょ?どんな感じかなぁって試したの』
『体は大人でもまだダメだろ。しかもあんた弱いし…もう辞めろ…飲むの』
『うん…』
『……家で何か…あった?』
痛いとこ突いてくる
『ううん。ただ、父親が幸せにしてるの嬉しいんだけど…あの家にはもう私の居場所がないみたいに感じて。。自分ってものがよくわからなくなって…むしゃくしゃした感じで…バイトの帰りに家に帰りたくなくて。つい…私に関心がないから多分昨日私がいないっていうのも分かってないと思う』
『あー、確かにさ昔見かけた時は父親と2人でも凄く楽しそうだったな…』
『お母さん小さい頃亡くしてね…でも2人でも楽しかったし、お父さん幸せになって良いか?って聞かれて…何か2人で幸せじゃなかったのかなぁとか…1つ疑問になったらズルズル…』
『幸せだったよ。多分』
『え?』
『だって2人でいる時…お父さんも楽しそうだったし…あ、パン焼けた…』
喉の奥がにがくて、こみ上げてくるのを抑えているのを彼はまるで気付いてない風だった。
キッチンへ戻るとパンにバターを塗り始めた。几帳面に丁寧に。
傾いだ気持ちを立て直した。綺麗にバターを塗る姿でどことなく四角四面なタイプかなと予測する。
『ねえ、一人暮らし?』
『…みたいなもん。親達はほったらかしで学会だとか海外出張だとか?俺いらない人間かも…生活費は口座に入るだけ』
『……そう…なんだ』
同じだなぁ。違うけど同じ感じだな。
『似てるだろ?俺たち』
『え?』
『何となく…寂しい者同士』
『………うん』
『あの……』
『ん?』
『又…来ても良い?今日のお礼』
『お礼?もう貰ってる気分だけど』
『どう言う事?』
『いやぁ、自分のシャツだけ着てる女って…エロくて所有欲、独占欲が満たされるっつうか…それに抱き枕としても気持ち良かったし?ヤれなかったけど満足かな。』
あれ?やんわり断られてるのかな?と思って耳に優しく届く低い声を聞いていた。
『そか…うん。分かった…』
うまく笑えたかは分からない。悪い癖なのか何なのか。誰に対しても深追いはしないように体に染みついている。彼の拒絶をあっさり受け入れて身を引いた。拒絶に傷ついた自分を無かった事にして掻き消すように呟いた。
『じゃあ、、ごちそうさま…その…有難う。もし、何処かで…駅とか?今まで会った事ないけどもしも会ったらその時は話しかけていいかな』
『……ああ』
表情からは思考が読めない。
なんだか心が複雑すぎて対処しようにも処理できないまま
『ありがとう』
伝えるのが精一杯だった。泣きそうになるのを堪えながら立ち去ろうとした瞬間
『やっぱちょっと待っ…』
『え?』
初めて見る動揺した表情に緊張する。
おもむろに私の両方の肩を掴んだ。
『ごめん…やっぱ無理。』
『えっと…どう言う…』
『…人を内側に入れるの無理だから…冷たく突き離してしまったけど…本当は帰って欲しくない。お礼とかいらないからこれから時々会ったりしたい…駅で会うとか待つくらいなら家から駅まで一緒に歩きたい』
さっきまで飄々としていたのに全く余裕の失くした瞳をこちらに向けると一気にまくしたてて深呼吸をした。
『それって…』
『前から好きだった…』
耳に届いた声が余りにも優しくて、何より驚き過ぎて言葉が嬉しくて…必死に堰き止めた筈の涙が一気に溢れ落ちた。
5へつづく