呼び出しに不本意な表情で立っていたのは長年社長である父親を支えて来た秘書部長の女史である。
『突然…すまない…貴方の手を煩わすつもりはなかったが、秘書課の人間に怪しい者が紛れているようだ』
机上に黒いファイルを投げ捨てる。
『怪しい者?それは聞き捨てなりませんね…専務。一体どういう事でしょう?これは?』
『…調査書だ。。だが大した情報はなかった。
変に探るよりはまず正攻法でと思って上司の君を呼んだんだ。』
『はぁ…何かございましたか?』
『昨日、役員会議から戻ったら君の部署の…名前は分からないが最近副社長の秘書になった者がいるだろ?あの秘書がいたんだ…僕は呼んでない。なのにここに居た。兄の秘書がだ。何やら頼まれ物だと言い訳していたが怪しさしかないだろう?』
『………そうですか…副社長の秘書ですと…ハヌリですね。彼女に頼み事をしたのは私です。けれどそれは副社長に宛ててです。きっと、部屋を間違えたのではないですか?』
眼鏡の端を指先で僅かに上げながら答えた。
『………だが、あの秘書はどこかおかしい。何がという訳ではないが…怪しいと感じるんだ』
『まぁ、専務…貴方がそんなに感情的になるなんて珍しいですわね…彼女の身元は私が保証します。ライバル者から私がヘッドハントしたんですから…有能ですし心配はいりませんよ』
『、、第六感だ…頭の中で警告音が鳴ってる…ライバル社に未だ通じてるという可能性は?兄にも気をつけるように伝えた筈だが…すっかり骨抜きにされてる…』
『骨抜きだなんて…ハラスメントですよ。お兄様…いえ、副社長もいくら悪戯好きでもそこは線を引かれるでしょう…職場に厄介ごとは持ち込みませんよ』
『父さんと貴女のように?』
鋭い一瞥を女史へ向ける
『何の事でしょう…お疲れの様ですし少しお休みになられては如何です?』
冷たい視線をものともしなかった。
『………そうだな…今日はもう帰るか』
『はい。その方が宜しいかと存じます…又何かありましたらお呼び下さい。』
怪訝な表情のまま帰り支度を済ませエレベーターに乗り込む。
降下しながらガラスの向こうを眺めた。
夕陽が沈み切ると焼けた空はカーテンを引くように徐々に夜の帳を広げた。
摩天楼が一際美しくなる時刻だ。
眼前の暮泥む美しき街を堪能していた。
『いつ見ても絵になる…』
呟いた。
誰かが途中で乗降用ボタンを押したのだろう。
無粋極まりなく何処かの階で停止した。
扉は開くが乗り込む気配がない事に違和感を感じ仕方なく振り向いた。
『……』
『やあ、誰かと思ったら秘書課の花じゃないか…ハヌリさんだったかな…乗らないのか?』
『あ、いえ…お邪魔かと…』
『遠慮することはない。どうぞ?それとも僕とエレベーターに乗るのは嫌だと?』
攻撃的に笑った。
警告音の主は嫌味さえあしらうように足を踏み入れた。
『クォン専務…昨日は申し訳…』
『いや、いいんだ別に驚いただけだから。それよりこの眺めを見てどう思う?』
『……あまり…高い所は得意ではありませんが…美しいとは思います』
肝心の眺望に背を向けている。
『へえ、、誰でも高みを目指すものだと思ったが…高所が好きじゃないとは勿体ない。だが、君が当たりをつけた人物は正解だ…兄さんはこの大企業の最も高みに昇る人物だ…うまくいけばの話だが…』
『……』
『どうした?本当に苦手とでも?』
『あ、、いえ別に…この高さに慣れなくて…それより、私を調査したようですね…そんな回りくどい事をせずとも直接聞いてくだされば何でも答えて差し上げますよ?』
蒼白でありながら立ち向かう姿に些か気圧される。
そして短くされど何某かの火花を散らしたひと時は地上に到着すると共に終了する。
『では。失礼致します…』
去り際の背にどういう訳か感情を揺さぶられる。
『待て…』
咄嗟に掴んだ腕のか弱さに僅かに怯んだ。
『え?』
『…では何でも答えてもらおうか…早速これから』
『これから?』
『答えを準備してないと不安かな?』
『いいえ…』
『他に待ってる人がいるとか?』
『…いいえ』
『じゃあ、決まりだ』
強引に連れ出した。
車に押し込むと携帯を取り出した
『あ、兄さん?これからあの女の正体をあばくから…楽しみにして…え?そう言われて辞めるわけないだろ?じゃあ』
一方的に通話を切断し運転席に乗り込む。
『ああ、そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ?ただ食事でもと思って』
『別に怖がってません。警戒しているだけです』
可愛げのない反撃に踏み込むアクセル。タイヤはアスファルトを強く擦った。
ハヌリは抵抗は無駄だと座席の背もたれに深く座り直す。
『好き嫌いは?』
『特には…』
鞄の中で携帯が振動している。
『…すみません、電話に出ても?』
『あぁ、構わないよ大方副社長からかな』
『……。はい。ええ、大丈夫です。……副社長、それは又…分かりました。では失礼致します』
通話を終えると再び移り行く車窓からの眺めに目を向けた。
無言の車内は彼女の柔らかな香りに包まれていた。
何処をどう走ったか説明がつかない。到着した場所は住宅街の一画にある。佇まいは隠れ家そのものである。
『遠慮せずに好きなものを…』
仮面の様な笑顔を互いに交わした
『ありがとうございます』
『……で、何が狙い?』
『唐突ですね…狙いって…何の話でしょうか?』
『僕はね、こう見えて勘が働くんだ、第六感というやつさ。君をみているとずっと…とにかくずっと警告音が鳴る。油断するな。信用するなとね…』
『あら、随分余裕ないんですね?貴方ほどの方がそんな弱気な発言…驚きましたわ』
『なに?』
『そんなに私が怖いんですか?』
『……君の事を元上司の人に聞いた。。付き合っていたって?』
『え?上司って…』
『会長の娘婿だそうだな。チャリティパーティで偶然会って君の話を聞いた。彼によると実に巧妙に騙されたと嘆いていた。妻子のいる彼が君の誘惑に負け騙され情報を君に渡し、それを持って我が社にやってきた。そしてあわよくば今度は兄さんと……って計画か?あの会社の会長にはもう1人娘がいる。彼女とも何度か会ったが君と違って清楚だ。兄さんには身体の綺麗な傷一つない女性と結ばれて欲しい…弟の願いだ。』
『………』
行きすぎた言葉に傷ついた表情は流石に気が咎める。しかしそれすらも毒婦の名演技であると攻撃の手を緩める事はしなかった
『どうした?元気がない様だが?計画が崩れそうで困ってる?それにしてもハヌリ…素敵な名前だな…神に救われますようにって意味か。。君の計画もここまでだけど』
『いいえ大丈夫。お話はよく分かりました。でも、専務のご期待には添えません…私は約束したんです…副社長と。ですから、彼から言われない限りは仕事を辞めるつもりもありません……ごめんなさい。今日は…気分が良くないので帰ります。。あ、名前ですが私。孤児ですので…孤児院のシスターがつけてくれました…悪魔から身を守れます様にと』
立ち上がるとその場を後にした。
『………』
後味は悪かったが釘は刺せたと安堵する…
『勿体ないな…食べずに帰るなんて』
『ここ…どこよ』
知らぬ場所に佇み途方に暮れた。
ポツポツと天から降る雨粒がこの空虚な心が生み出した涙にも思えた。
『……雨か…』
気を取り直し歩き出したハヌリの前に立ちはだかる影が現れた。
『……何してる…』
『……副社長…』
『………』
『ここで何を?』
『勿論待ってたんだけど?』
差し出された傘に入る事もできず動けないでいるハヌリに苛立ちを覚える。
『何時間歩いてるんだ?』
『チェ副社長。何故私がここに居ると?』
高級車に背をもたせ副社長は笑った
『互いの居場所は分かるようにしてるだろ』
『ああ、GPS…なるほど。。』
『じゃあ私も貴方の居場所をいつも確認して良いのね?』
『勿論だ…俺たちは同志だからな』
『…そうね…』
『乗れよ…送る』
『何処に?』
ハヌリの細い腰にするりと腕を伸ばすと引き寄せた。
『とりあえず…俺の部屋…』
クォン専務の憂鬱2へ続く