『ん……あら起きてたの?』
『まぁね…』
『何してたの?いつもなら先に会社に行ってるでしょ?もしかして寝坊?』
『………』
『じゃあ支度しないと…』
起き上がるのを阻止する様に手を伸ばし引き寄せた。
『なに?…』
ハヌリは目を丸くしている。
『いや、、別に』
この胸に湧き出す不可思議な気持ちに説明がつかなかった。
これまで誰にも感じた事のない安らぎ。
『ねぇ、ちょっと!急がなきゃ遅刻よ?貴方今日…』
『JY物産との会食だろう?覚えてる。大丈夫だ』
そこにはライバル社のSMIシステムズも参加する。
『……』
『どうした?』
『いえ、別に…SMIからは会長とお嬢さんがいらっしゃるって…』
『別に…』
重い体を起こしベッドサイドに腰掛ける、目の前でいそいそとしながら支度をするハヌリのその背にかかる髪をぼんやりと見ていた。
『なに?』
『いや、昨日はあんなに乱れてたとは思えない変身ぶりだな。女は怖い』
『……私はもう出るわよ…』
実に淡白に振り返りもせず背を向けた。
『俺を置き去りにする女なんて…初めてだ』
嘲笑した。
一足先に出社したハヌリはこれから突入する巨大な建物を仰ぎ見た。
『これだけは慣れないわ…』
怖気付くのを振り切るように深呼吸で心を落ち着かせるとセキュリティチェックを通過した。
エントランスの奥にあるエレベーターまでに鞄の中で着信音が鳴り響いた。
『はい……あら、久しぶりね。ええ、元気よ。私?そうよ。今はその会社の副社長についてるわ。え???ちょっと待って!それは止める事は出来ないの?…ええ。分かったわ。お願い…代わりに別の話を提供できるかも知れないから…』
通話を終え、今度はこちらから発信する。
『……シャワーでも浴びてるのね…繋がらない…』
要点だけをまとめてメッセージを送る。それからエレベーターのボタンを押した。
『……随分ゆっくりだな…』
背後からの声に振り向く
『クォン専務』
『なんだ?あからさまに嫌な顔をして…それに…』
『何ですか?』
従者達に人払いを命じる
『いや、エレベーターが到着したよ?お先にどうぞ…』
その白々しさに警戒心という盾が瞬時に現れた。
『何階かな?あー、君は副社長の秘書だから…45階かな?僕と同じだ』
『……』
ガラス張りのエレベーターは上昇を始めた。
『で?いつも早くに出社する君が今日はゆっくりだ。エレベーター前では何やら怪しい会話…』
『聞いてたんですか?』
ゆっくりと奥へ追いやられる。
『聞こえたんだ…それによく見たら昨日と同じ格好だ…そして微かに香るこれは……』
そっと距離を縮める。
『……な、、ちょっとセクハラですよ!』
身構えながら答えた。
『そりゃ副社長の秘書だから君から同じ香りがするのも当然か。』
下手な演技をして見せる。
『……』
『あの…私入り口に近い方が良いんです…代わって頂けませんか?』
『場所?ああ、高所が苦手だったっけ?なら地上で仕事をすれば良いのに…』
『……』
『そうだ、今日の会食はSMIのお嬢さんも来る。会食という名の見合いだ。邪魔立てせぬように』
『承知しております』
『へぇ…話しの分かる愛人だな』
『副社長と私はそんなんじゃありませんし…』
『愛人じゃない?だったらなんだ?』
『………私がどう思っても仕方ないという事ですよ…いくら愛しても、手の届かぬものもあるんです…私の存在なんてあって無いようなものですから』
生気のない横顔は儚げに見える。
『どちらにせよ兄さんはこの見合いで結婚する。あんたの出る幕はない…潔くここを去るか俺に乗り換えるかしか道はないぞ…』
『乗り換える…?』
『周知の事実だろ?俺は社長とは血の繋がらない息子だ。俺の中には毒がある。正統な後継者の兄さんとは違う…毒は毒同士仲良くやれるんじゃないかな?』
『………』
『ちょ、、ごめんなさい…目眩が…』
『え?』
『……ピョル…』
『おい!』
どれ程の時間が経過しただろう、気が付いて目を開くと真っ白い天井が見えた。
『気がついたか?』
『あ、、すみません…ご迷惑を…ここは。。』
『ああ、僕の部屋…専務室だ見覚えあるだろ?そんなに苦手なのか?高い所…』
『ええ、、飛行機で怖い思いをした事があって…』
『ああ、エアポケットなんてたまに酷い時があるからな』
『……』
すぐに起き上がるが目眩の余韻に覚束ない足取りでふらつく。
『ああ、もうこんな時間…』
腕時計は予想を遥かに超えた時間を示していた。
再び倒れかかるのを咄嗟に腕を伸ばした。
『兄さんは今頃会食でホテルゼウスだ…諦めるんだな』
『……なんて事なの…秘書として失格だわ…急がないと。。』
急ぎ飛び出していく。
『今から行っても間に合わない』
『……どうかしら』
『おい…』
『急がないと大変な事になる…』
『大変な事?』
『……説明している暇はないの…じゃあ専務、車を回して下さい。』
『なんだ?』
『私の話が聞きたいんでしょう?かなりの緊急事態だから急いで決めて』
『……分かった…』
『準備するものがあるの。入り口で待つわ…』
入り口に回された車に即座に乗り込む
『……』
『で?』
『……』
『準備って…髪を下ろしただけか?』
『口紅は真紅。それから髪は下ろして、スカートのスリットは深めがいいってお兄様が言ってらしたわよ』
『何の話をしてる!』
『…短気な人ねえ、、この会食は貴方が計画したものだったかしら…』
『だったら何だ?』
『この前貴方が会った私の元上司…会長の娘婿だって言ってたけど。とんだ裏切り者だけど…良いの?』
『どういう意味だ…』
『まず、あの男の下で働いていた事は事実。でも付き合った事はないわ。。あの男の秘書であった事だけが事実よ…付き合ってただなんて…誘惑したなんてよくも…』
『…どういう事だ?』
『あまり楽しくもない話だし…信じて貰えないだろうから、独り言として聞いて』
浅く息を吐くと呟くように語り出した。
『私は聞いてはいけない話を聞いたの。それはライバル会社を乗っ取る事。
問題はね、計画は単独じゃなかったの。誰と話していたか聞きたい?』
『誰と話していたんだ?』
『…貴方のお兄様のお見合い相手よ』
『???義理の妹?妻の妹とそんな話を?そんなバカな話…』
『だから、信じるかどうかは任せるわ。妻の妹.つまりお嬢様とはそういう関係だったみたい。社内ではまことしやかに囁かれてた。私はそういう事には疎いから知らなかった…ただあの日…私は別の事に気を取られ、一人で会社に残って調べ物をしていた。。あの2人は私がいる事も気付かずに隣の部屋で恐ろしい計画を立てていた。
勿論詳しくは聞こえない。でも私は何となく嫌な雰囲気がしてその場を後にしたわ…物音一つ立てていないつもりだったけど立ち去る足音であの男は気付いて追いかけてきた…計画を知ったと思い込んで掴みかかって殴り蹴り…逃げようとする私を無理やり…無理やりその場で…』
月日が経過しようと強く組み伏され握られた痕が残されているように感じ記憶の断片に支配され思わず腕を抑えた。
『この腕の痕は今は消えたけど、、目には見えなくても消えてない。貴方が昨日言ったように私は汚れてる。だからそれも間違いじゃない、、
更に酷いのはあの男は抵抗する気力をなくした私に今度は協力し服従するように脅した…』
『……』
『はいと言わない私を痛めつけるだけ痛めつけた。。何時間も蹂躙し疲れて攻撃の手を緩めたその隙に逃げ出した。追いかけてくるあの男から逃げおおせた時は泣けたわ。その足で何とか誰かに伝えないとと貴方の会社に行ったの…バカよね。当然警備に止められたし、不審人物そのものだった、、なのに社長を呼ぶように必死で騒ぎになって…駆けつけてきたのがチェ副社長だった』
『………』
『あの人は以前会ったことがある私を覚えていたの私より先に気付いて開口一番に「ハヌリ、どうしたんだ?」って…駆け寄ってくれた……』
『会った事が?』
『ええ、、随分昔に……』
運転に集中はしていても、助手席の女が泣いているのは明らかだった。
車窓に流れるを楽しむ余裕も当然ない。
『この世界で初めて私の前に現れた正義の味方の様に思えたし、私の話をきちんと聞いてくれて…安心したのとても。すぐにお父様に連絡をとってくれてそれから秘書部長を呼んで私を匿ってくれたわ。私の家はもうあの男にはバレてるから…』
『ああ……それで君の身元はハッキリしてると言ってたんだな…なるほど。何も知らなかったのは俺だけか…』
『貴方はお兄様を助けたい…そう思ってるんでしょう?』
『当たり前だ…』
『…だったら先を急いで。私にはマスコミに知り合いがいるの。今日、副社長とSMIの娘との婚約が発表されるらしいけど本当かと、それと専務のインサイダーの記事が出るという話だったわ。インサイダーの見返りに情報をくれた女を副社長の秘書に迎えたと…』
『インサイダー?僕が?君と??』
『勿論貴方はこの会社を愛してるからそんな事するわけない。得意のでっち上げよ。
でもそれが真実かどうかなんて人々には興味がない。ただ、お金持ちの御坊ちゃまが罪を犯した。それをこぞって叩きたいだけ。でもそうする事で利益がでるとしたら??ライバル同士並べてどちらに人気の比重が傾くかしら』
『でも、ライバル同士が婚姻により結束を高めるという時になにもわざわざ問題を起こす必要が…?』
『マスコミを利用した印象操作は今後の経営権にも関わってくるでしょうね…あの男が欲しいのは経営権よ』
『……しかし…』
そうこうする内に会食場所のホテルへと到着する。
SMIからの刺客としてマスコミが既に駆けつけていた。
『どうやって中へ…』
『堂々と表からに決まってる…副社長がメッセージに気付いてくれてたら良いけど…』
ホテルの正面へ車を回すとボーイにそのまま預けた。先に降りて風の様にホテル内へと向かうハヌリに続いた。彼女の背中を見つめる度にまた何かしらの警鐘が頭の中に鳴り響く。
『ピョル…?…』
何かが頭の隅に引っかかる。
『ちょっと何をしてるの!急いで』
『あ、ああ』
走り行くハヌリが出会い頭に何者かとぶつかると瞬時に捕まった。
『おや、君は…我が社の裏切り者じゃないか…』
『パク…副社長…』
車内での話が真実ならば当該の男が不敵な微笑みを見せながらギリギリとハヌリの腕を締め上げている。
痛みに顔を歪める姿に男は恍惚とした視線を見せた。
『い、いた…』
強く腕を掴まれ痛みが走る。
『何してるんだ!彼女の手を離せ』
『おや、これはこれは…専務様までこちらにお出ましとは…裏切り者の毒婦を捕まえただけですよ。。
そうそうあのお話を進めさせて頂く事となりました…』
『…あのお話とは…』
『私の妻の妹、つまりは義妹との婚約ですよ、、義妹も乗り気です。今、お似合いの2人はホテルの中庭を散策していますよ。
それからもう一つ。独自の調査によるとこの女はうちの社から貴方の会社へと移った…副社長の秘書という好条件だ。おまけに副社長の愛人だ…さぞかし良い生活だろう?いったいどんな情報を携えて行ったのかと思ってね、丁度探していたんですよ』
『僕の婚約者を侮辱しないでくれないかな?パク副社長?』
猟奇的な男からハヌリを奪還すると背中に隠す。
『兄さんっ』
『チェ副社長!』
『おや、散策は終わりましたか?』
『ああ、一服しにね』
『そうですか…しかし…婚約者とはこの裏切り者が貴方の婚約者だと?てっきり貴方は私の義妹と…』
『………』
『この女は孤児院出の出自の賤しい女ですよ?やめた方が良い。貴方の社会的地位が汚されてしまいますよ…それに妻子のいる私を誘惑しようとし…得た情報を横流しだ…全く恐ろしい、実に恐ろしい…あ、それはもしかするとインサイダー取引になるんでは!?』
わざとらしく声を荒げた。
『ああ、そうですか…貴方の言う事が全くのデタラメというのは分かっている…もしここにマスコミの人間がいたら僕は宣言する。
公使ともに彼女とこの先も生きていく事を』
隠していたハヌリを引き寄せる。
その瞬間そこかしこでフラッシュがたかれた。
それを確認すると目で合図する。
奥から背の高い男がゆっくりと近付いた。
『これはこれは、皆様お揃いで…当ホテルのオーナー、チェヨンドと申します。
本日は3社合同の御会食ではありませんでしたか?揉め事ではありませんよね?チェ副社長…何か困りごとでも?』
『いや、何もないが少々小蝿が飛んでいる様だ。この格式のあるホテルにそんなものはまさかいないだろう?』
『それは大変失礼致しました。直ちに小蝿を排除したいと思います』
隠れていたマスコミを一掃するように指示する。
『チェ副社長。失礼したお詫びに特別スィートをご用意致しますのでいつでもお申し出ください』
深々と頭を下げた。
『有難う…彼女に聞いてから連絡するよ』
『会見の会場やイベント、結婚式等もなんなりと』
マスコミを追い払い再び3人はパク副社長と対峙する。
『パク副社長…貴方が犯した罪は深い。』
『罪?なんの事です?』
『貴方が彼女にした事を私は許すつもりはない。貴方が弟に被せようとした罪も許すつもりはない…』
『……義妹との婚約を打診してきたのはクォン専務だ…これは婚約不履行になるんじゃないか?』
『……見苦しい…本当に見苦しくて申し訳ありません…』
物陰から女性が現れる。
身なりからもそれなりの立場である事は推測される。
『ファラン…なぜ君がここに』
『何故って?貴方と離婚の話をするためですわ』
『チェ副社長…お久しぶり。ごめんなさいね私の夫が…嫌な思いをさせて…私ももう堪忍袋に限界がきたわ。。これ、言われていた動画よ…ただ、余りにも酷くてわたしは最後まで見る事はできなかった…ハヌリさん、ごめんなさい…同じ女として許せない。この人は私には必要ないから妹にあげるわ』
『ちょ、、ちょっと待ってくれ動画ってまさか』
『社内監視カメラよ。あなた人生おわったわね。あ、忘れてるようだけど…お父様は会長、社長は私。あなたは?』
『ふ、副社長…』
『いいえ、重大な社則に対する違反行為が認められ今日を以て解任します。クビよ』
男は足元から崩れ落ちる。
『ファラン、すまない…君にも色々と調査してもらって…』
『良いのよ…同級生でしょう?じゃあ、子供達が待ってるから…あ、あなた、荷物はもううちにはないから…帰ってきても無駄よ?鍵も変えたし…貴方は妹の所に帰りなさい?』
冷たく言い放つと背を向けた。
『兄さん、会食はお開きになったのか?』
『ああ、楽しくもなかったが有意義ではあったな…』
『なんだそれ…でも、知らなかった…会長令嬢と同級生だったんだ』
『ああ、そうだ…』
『許さない…許さないぞクォン専務!!チェ副社長!俺をコケにしやがって……』
男はゆらりと立ち上がるとこちらに目掛けて迫り来る。手にはギラギラとした刃が光っていた。
『危ない!』
ハヌリは咄嗟に男に立ち向かうとその場に倒れた。
『…ハヌリ!大丈夫か!ハヌリ!』
兄の叫び声が響く
『え?何…何が…』
『ピョル…あなた…怪我はないわね…よか…』
『な、なんだ?何が…』
横たわるハヌリを前に呆然と立ち尽くすしかなかった。
クォン専務の憂鬱3完へ続く
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