今日は懐かしの麻布die Platzeに行って来た。
ディプラッツ(スペルで書くのめんどくさい)と言えば去年の今頃「画用紙」をやった劇場だが、今回は風戸”菊姫”蒔サマの舞台である。
先月末に池上の舞台(の様なもの)を観に行った?ときにも同じようなタイトルであったが、今回は?マークの位置が違う。
もちろんこれには訳があって、前回は観たのか観なかったのかよくわからないので「見てきました?」で、今回は芝居なのかどうなのかカテゴライズが難しいので「お芝居?」なのだ。
まあ、どうでもいいっちゃあどうでもいいんですが(笑)。
ではどうしてカテゴライズが難しいか、と言えば「ストーリーを台詞ではなくダンスで表現する」という手法をとっているからだ。
去年観に行った時は随分中途半端で(開演前にあらすじの朗読があって、それを踏まえてみても今ひとつよく判らなかった)、正直いかがなものかと思ったものだったが、今回は数段判り易くなっていた様に思う。
もちろんいささか首を傾げる部分もあったのだが、全体的には悪くはなかった。
薬にも毒にもきちんとなっていた。
でもなあ…やっぱりしゃべるべき所はしゃべるべきだと思うんだよなあ…すっごい不自然だもの。
特に終盤、それまで咳払い一つしなかった舞台上で、ヒロインの息づかいがクローズアップされるのだが、それは一体どうしたことなのか?
台詞はダメで息づかいはアリ、というのはちょっとなあ…。
コンセプトの問題なのだろうが、例えば「芝居から音声というものを取り払って音楽と動き(ダンス)で表現する」というのならば息づかいは無しだろうし、「芝居とダンスの完全なる融合」を目指すのであれば息づかいはもちろん、台詞も必要な部分には入れるべきだ。
エピローグではSEで空港のアナウンスが日本語で流れたし、そういうツメの甘さが非常に惜しまれた。
しかし一年前、自分が支配した舞台に他人が立っているのを見ると、言葉では言い表せない感情が沸々とわき上がって来るのを感じる。
俺の居場所は、やっぱり客席じゃないんだよな。
ディプラッツ(スペルで書くのめんどくさい)と言えば去年の今頃「画用紙」をやった劇場だが、今回は風戸”菊姫”蒔サマの舞台である。
先月末に池上の舞台(の様なもの)を観に行った?ときにも同じようなタイトルであったが、今回は?マークの位置が違う。
もちろんこれには訳があって、前回は観たのか観なかったのかよくわからないので「見てきました?」で、今回は芝居なのかどうなのかカテゴライズが難しいので「お芝居?」なのだ。
まあ、どうでもいいっちゃあどうでもいいんですが(笑)。
ではどうしてカテゴライズが難しいか、と言えば「ストーリーを台詞ではなくダンスで表現する」という手法をとっているからだ。
去年観に行った時は随分中途半端で(開演前にあらすじの朗読があって、それを踏まえてみても今ひとつよく判らなかった)、正直いかがなものかと思ったものだったが、今回は数段判り易くなっていた様に思う。
もちろんいささか首を傾げる部分もあったのだが、全体的には悪くはなかった。
薬にも毒にもきちんとなっていた。
でもなあ…やっぱりしゃべるべき所はしゃべるべきだと思うんだよなあ…すっごい不自然だもの。
特に終盤、それまで咳払い一つしなかった舞台上で、ヒロインの息づかいがクローズアップされるのだが、それは一体どうしたことなのか?
台詞はダメで息づかいはアリ、というのはちょっとなあ…。
コンセプトの問題なのだろうが、例えば「芝居から音声というものを取り払って音楽と動き(ダンス)で表現する」というのならば息づかいは無しだろうし、「芝居とダンスの完全なる融合」を目指すのであれば息づかいはもちろん、台詞も必要な部分には入れるべきだ。
エピローグではSEで空港のアナウンスが日本語で流れたし、そういうツメの甘さが非常に惜しまれた。
しかし一年前、自分が支配した舞台に他人が立っているのを見ると、言葉では言い表せない感情が沸々とわき上がって来るのを感じる。
俺の居場所は、やっぱり客席じゃないんだよな。