「がんばる」と言う言葉がとにかく嫌いである。
同様にして、努力とか、それに類する言葉も。
そもそもがんばったからなんなのさ?努力したからどうなのさ?
僕がまだ高校生のころ、「電気グルーヴ」という、今で言うとなんなんだろう、とにかく当時は先進的な音楽を発信していた(と言う風に受け買い〔「受け売り」を「買った」〕した)バンド、と言うのが適当かどうかはわからないが、まあそんなグループの歌の中に、細かいことは忘れてしまったけれども、今の日本は「根性、努力が美徳の世界」と言うことが否定的に歌われていた。
まったくもってその通りである、と、当時は深く感心した。
じゃあ今は?と言われれば「まったくその通り」としか言いようがない。
根性だろうが努力だろうが、そんなもの自体には一文の価値もないわけであって、なぜそのようなことに評価や対価を求めるのか、それがまったく、全然、少しも良く判らないのである。
何かを成し遂げるために、努力することは当たり前のことである。
努力し続けるためには、根性が必要だ。
と言うことは、

それって当たり前のこと

なんじゃないのかな?
例えば白納豆が公演を打って、大して面白くなかったとして、でも劇団員はみんながんばりました、努力しました、根性ありました、って言って(当日パンフレットで「ご挨拶」みたいに僕が「今回は時間がなくってえ…」とか言ってみたり)、それで二千五百円チャラにできますか?
できないでしょう?
だから僕は絶対に「がんばった」と言いたくないのである。
「がんばった」なんて、ある意味で世界で一番かっこ悪い言い訳でしかない。「努力した」だってそうだ。
だって何かがうまくできなかった時に、「僕は精一杯努力しました」って言っちゃったら、そこで終わりじゃん?
俺は死んでもそんなこと言いたくない。
できなかったのは俺の努力が足りなかったからだ、と言いたいし思いたい。
俺はきちんとがんばれば何でもできる。
そう思わなければ人に何かを見せてお金をもらう、なんて出来ないと思う。
白納豆のみんなから、「がんばる(った)」「努力(した)」と言う単語が出なくなる日を、遠く望む今日この頃である。