松本城にいって参りました。
松本城。
信玄公ファンとしては「松本城」ではなく「深志城」と呼びたいところ。
深志城といえば史上名高い「塩尻峠合戦(1548年)」で勢力を減衰させた信濃守護職・小笠原長時を、その二年後(1550年)に滅亡させたあと、小笠原家累代の居城・林城の付け城(本城の防御の為の支城)であったものを拡張し、中信濃経営の拠点としたものである。
初代城主は馬場信春(風林火山では現在「教来石景政」と名乗っている)。
ちなみに深志城の縄張り(堀/土塁などの地形の設計)を行ったのも、山本勘助の薫陶を受けた馬場信春であると伝わっている。
現在の松本城は武田家滅亡後、豊臣秀吉(当時は秀吉に膝を屈していた徳川家康)によって所領を回復した小笠原家によって築かれ、改名されている。

僕にとっての松本城、というのはさっきも書いた通り深志城の成れの果てなので、どっちかって言うと否定的だったのだけれど、合理的な防御思想にもとずく織豊期の築城術を見るのは非常に興味深かった。
意外だったのは狭間(銃眼。閉鎖された城内から外側にいる的を狙撃する為の小さな穴)。
鉄砲用の小さな狭間と弓矢用の縦長の狭間が混在している上に、数の上では弓矢用の狭間の数の方が多いのである。
これは常識的には鉄砲が戦場の飛び道具の主流と認識されている安土桃山期にも、依然として弓矢が主要兵器であった事を裏付けると同時に、長篠合戦(1574)の通説とされる「鉄砲VS騎馬」の一方的虐殺を否定する要素であるような気がする。
だって1574年の段階で、織田(=豊臣、徳川陣営)の主要兵器が鉄砲であったのなら、その二十年も後(1593~4と考えられている)に築城された天主には、当然鉄炮狭間の方が多く作られていてしかるべきではないか?
長篠合戦の折の武田軍と織田軍の兵力は武田軍15000に対し織田/徳川38000(異説あり)。
鉄砲云々より元々の兵力差が大きかったのだ。
もちろんこれが勝頼公の敗北を何ら糊塗する要因になるとは思わないが、「時代遅れの武田軍」対「先進的な織田軍」という認識は改めて貰いたい。

縄張り(城域)を見ると、現在城跡として保存されている領域(外堀と内堀)の外に「惣構え」という掘り割りの跡がある。
惣構えには四つの突出部があり、このうち三つは明らかに「丸馬出し」を形成している。
風林火山の第二話あたりで勘助さんが「これは俺のオリジナルじゃ!」
的な事を言っていたが、丸馬出しは勘助のオリジナルかどうかは別として、武田家の築城術の特徴として挙げられる部分であるので、天守閣築造の50年前の武田の技術がいかに優れていたかの証左になる。
だって変える必要が無かったってことだものね。

そんなこんなで松本城、持ち前の晴れ男っぷりを存分に発揮して、非常にいいコンディションで見て来れました☆

今日は迷った挙句にカルヴァドスを呑んで寝ます。
お休み。

明日は風林火山!